阿遅志貴高日子根

アヂシキタカヒコネ、別名「迦毛大御神(カモノオオミカミ)」。
この神様が邪馬台国と出雲国に和平を成立させたなんて、記紀に詳しい方ほど信じられないでしょう。実際、阿遅志貴高日子根をネットで検索すればするほど、訳が分からなくなります。私自身、

「本当に、自分の考察は間違ってないのか?」

何度も自問自答しました。他にアヂシキタカヒコネに関する記述は無いのか?
いろいろ調べた結果、出雲国風土記にアヂシキタカヒコネに関する記述がありました。出雲国風土記は733年、聖武天皇に奏上されたらしい。古事記が献上されてから21年後に奏上されたわけですね。出雲国風土記には、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)の系譜に関する記述があります。
それによると阿遅須枳高日子命の、

父 :大穴持命(おおなむち。大国主のこと)
妻 :天御梶日女命(あめのみかじひめ)
子 :多伎都比古命(たきつひこ)
子 :塩冶毘古能命(やむやびこ)

と書かれてます。お気づきでしょうか?
古事記ではアヂシキタカヒコネの、

父 :大国主
母 :多紀理毘売命(タキリビメ)
妹 :下照比売(シタテルヒメ)

と書かれてましたね。出雲国風土記には、古事記に記載されてなかった妻と子が追記されてます。逆に言うと、風土記には母と兄妹に関する記述は無い。ここから出雲国風土記の編纂者は、古事記を読んでいたことが分かります。

次に阿遅須枳高日子命は、風土記ではどんな神様だったのか?
2つ見つけました。

その1:
大神大穴持命(大国主のこと)の御子、阿遅須伎高日子命(あじすきたかひこ)は、御須髭(みひげ:あご鬚)が八握(やつは:こぶし8つ分)に生えるまで、昼夜泣いてばかりで言葉が通じませんでした(スサノオみたいですね)。

どうして阿遅須伎高日子命は、泣いてばかりなのだろう?
大国主は夢で「御子が泣くわけをご教授ください」と祈願すると、御子が言葉が通じるようになった夢を見ました(崇神天皇みたいですね)。大国主は目覚めて、御子に問いかけました。
その時、阿遅須伎高日子命は「御澤(みざわ)」と喋りました。これが三澤郷(みざわごう)という地名の由来です。

その2:
賀茂神戸(かもかんべ:神戸とは租庸調の基準となった民戸のこと)
所造天下大神命(大国主)の御子、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)は、葛城の賀茂社に鎮座している。この神の神戸である。だから鴨という。神亀三年(726年)に賀茂と改めた。

風土記はここで、賀茂(かも)という言葉の由来を謳ってますね。調べると鴨氏の祭神ということで、奈良県御所市鴨神の金剛山東山麓にある高鴨神社(たかかもじんじゃ)にアヂシキタカヒコネは祀られています。高鴨神社は、京都府京都市の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社らしい。古事記には、

「鴨君の祖は、意富多多泥古(オオタタネコ)」

と書かれてます。(原文:此意富多多泥古命者神君鴨君之祖)
オオタタネコ、三輪山の大神(=大物主)を祀った人でしたね。その子孫が鴨/賀茂/加茂と呼ばれた氏。その鴨氏が、阿遅須枳高日子命を祀った。
どうやら、迦毛大御神(カモノオオミカミ)という神様の由来を謳い直してるようです。

確実に言えることは、迦毛(カモ)という神様は、古墳時代から崇拝されていた。その神様に稗田阿礼は、大御神(おおみかみ)という称号と、アヂシキタカヒコネという名称を追記した。
古事記にはアヂシキタカヒコネを紹介する時、以下のように書かれてます。

此之阿遲鉏高日子根神者 今謂迦毛大御神者也
(このアヂスキタカヒコネの神というのは、今で言うカモノオオミカミのことです)

鉏(スキ)とはサイと読み、刀や小刀/刃物、あるいは鋤(すき)という農耕具を意味する。(コトバンクより)
さらに高日子根(タカヒコネ)。稗田阿礼は、「高日子の根本となる神様」と謳い直してます。その神様は、古墳時代から祀られていた迦毛(カモ)神。さらに大御神(おおみかみ)という称号まで与えました。
アヂスキタカヒコネという神様は、稗田阿礼にとって、よほど印象的な神様だったのでしょう。

ここまで!
これ以上、深掘りはできない。アヂシキタカヒコネが九州と関係のある神様であるとか記載されてることを期待して調べましたけど、収穫無し。
残念ですが、調べるのはここまでです。

和平

古事記に明記されている「和平」。日本人は、いつから「和平」という言葉を使い始めたのでしょう?
少なくとも古事記に記述されているのですから、遅くても8世紀には存在していたことは確実ですね。そして「平和」と「和平」、どちらもGoogle先生で翻訳すると、

英語  :peace
フランス語 :La paix
ドイツ語 :Frieden
イタリア語 :pace
スペイン語  :La paz
ロシア語 :мир
中国語 :和平

と、返ってきます。
すべての言語はとても調べきれませんが、「平和」と「和平」という言葉を使い分けてるのは、おそらく日本人だけ。平和と和平の違いは、あなたもご存知の通りです。

(1) 平和とは、争いの無い「状態」のこと
(2) 和平とは、争っている状態から争いの無い状態へ「遷移」すること

従って、過去に争った実績がなければ「和平」という言葉は生まれません。それでは奈良時代より前に起こった争いを見てみましょう。

(1) 卑弥呼が倭国大乱を経て、倭国を統一して和平が成立した
(2) 白村江の戦いに敗北したことで、和平が成立した
(3) 壬申の乱で、天武天皇が勝利したことで和平が成立した

全て日本語として変。意味が通じないでしょう?
そして平和とは、「争いの無い状態」ですから、

(1) 卑弥呼が倭国大乱を経て、倭国を統一して平和になった
(2) 白村江の戦いに敗北したことで、平和になった
(3) 壬申の乱で、天武天皇が勝利したことで平和になった

変な言い回しもありますが、言葉の意味は通じます。
繰り返しますが、「争った結果、平和になった実績」が無ければ、和平という言葉は生まれません。但し、「話合い」は必須条件ではない。争った結果、互いの力を認め合って、漫画のように和平が成立する可能性もあるでしょう。しかしながらそのような歴史は、私が調べた限り、世界史を含めても皆無。

「話合いの結果、邪馬台国と出雲国に和平が成立した」

「和平」は、この実績に基づいて生まれた言葉だと考えます。いろいろ調べましたが、8世紀までに「争った結果、話合いによって決着した実績」は、これしか見つからないし、思い付きませんでした。

と言うのはウソ!
「争った結果、話合いによって決着した実績」が、もう一つあると考えます。それは倭国大乱の結果。

「卑弥呼が倭国大乱を経て、倭国を統一して和平が成立した」
「倭国大乱の結果、(30余りのクニが)卑弥呼を共に王に立てた」

魏志倭人伝や後漢書東夷伝に記載されてるように、卑弥呼は「共立」されて女王となりました。30余りのクニが話し合った結果、卑弥呼を共に王に立てた。この史実に基づいて「和平」という言葉が生まれたのかもしれません。
もちろん個人の感想、判断はあなたにお任せします。しかしながら、

「話合いの結果、邪馬台国と出雲国に和平が成立した」

ことは間違いないと考えます。そもそもタケミカヅチはアマテラスに、「葦原の中国(=出雲国)と和平が成立した」と、はっきり報告しているのですから。
倭国大乱を経て、倭国を統一した卑弥呼は、「話し合いの大切さ」を知っていたのかもしれません。

「以和爲貴(和をもって貴しとなす)」

超必殺、飛鳥文化アタックを開発した聖徳太子もおそらく、和平を知っていたはずです。話合いによって軍事国家と治水国家間に、和平が成立したことを知っていた。結果、「以和爲貴」。
この言葉、相当なバックボーン(支柱)を持ってないと、そう簡単には宣言できませんよ。
日本国を象徴する「和」。聖徳太子が「話合い」を重要視したのも、過去の実績に基づいたんじゃないかな?

「そうなんですか、太子?」
「わたしを見直したか、小野イナフ」
「イナフじゃない、妹子です!」

太子と妹子を調べると和と仏教の関係、「エンタシス」と呼ばれる、古代ギリシャのパルテノン神殿と同じ支柱構造を用いた法隆寺、1:√2の「白銀比」で構成された五重塔など、非常に興味深いですが、それは別のお話。

夷振の歌

そして夷振(ひなぶり)の歌。これ、音仮名だと思います?
夷(ひな)と振(ふり)。間違いなく意味を持った漢字です。一般的に夷振の歌というのは、「田舎風の歌曲」と解釈されてます(倉野先生より)。古事記下巻にも、第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の項に、「夷振の上歌(あげうた)」、「夷振の片下(かたおろし)」という歌が書かれてます。
ウィキペディアを基に簡単に説明すると、

(允恭天皇の)即位23年、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を立太子。しかし翌年に太子は同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)との道ならぬ恋に落ちてしまった。同母兄妹の恋となると当時でもさすがに禁忌であった。即位42年、天皇は崩御。しかし暴虐を行い女色に溺れたと見なされた太子から人心は離れ、弟の穴穂皇子(=安康天皇(あんこうてんのう)、第20代天皇)へと移っていった。

穴穂皇子を恐れた太子は密かに挙兵しようとしたが失敗し、物部大前宿禰の館に逃げ込んだ。そこへ穴穂皇子が軍を率いて現れ、館を取り囲んだ。大前宿禰はあっさりと太子を裏切り、最期を悟った太子は自害した。あるいは伊予に配流されたとも言われる。

『古事記』に拠れば、太子は伊予の湯(道後温泉)に流されたという。遺された軽大娘皇女はなお想いがつのるばかりで、ついに伊予へと向かってしまった。再開した兄妹は喜びに浸りながら自害して果てたという。この兄妹の悲恋が『古事記』における衣通姫伝説であり、允恭記の大半を占める歌物語となっている。

允恭天皇の項は、ほとんどが和歌で占められてます。歌でぼかされてますが、どうやらここでも皇位継承争いが起こってますね。この時、木梨軽皇子が詠んだのが夷振の上歌/夷振の片下。「夷振」の意味は、田舎風の歌曲などという穏やかな意味ではない。

夷とは、異民族のこと。蝦夷(えみし)という大和朝廷に服従しなかった異民族が、東北に存在しましたね。地政学的に考えて、蝦夷がおそらく縄文時代の血を色濃く残した民族だったのでしょう。

その蝦夷を征伐した大将軍、略して「征夷大将軍」が、平安時代初期の坂上田村麻呂。征夷大将軍が、鎌倉時代から江戸時代まで続く武士の時代の「将軍」の象徴となりました。
そして幕末の「尊皇攘夷」。これ以上、説明の必要は無いでしょう。

その異民族を「振る/揺り動かす」。
夷振とは、「異民族を揺り動かす」という意味になります。
出雲国から見て邪馬台国は異民族。そりゃそうです。弥生時代の中国大陸の歴史を見てください。

弥生時代が始まったとされる紀元前3世紀頃、中国大陸は戦国時代で韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦等が覇権を狙い相互に戦っていました。このなかで秦が紀元前230年に韓を滅ぼし、紀元前228年に趙、紀元前225年に魏、紀元前223年に楚、紀元前222年に燕、そして紀元前221年に斉を滅ぼし、中国史上初めての統一王朝が誕生します。
(弥生ミュージアムより)

秦の始皇帝から駆逐された民族が日本に入ってきた。いわゆる「帰化人」です。
当時の船では対馬海峡の流れが速くて、九州にたどり着けない。たどり着いた場所は出雲。古代出雲国の誕生です。物的証拠もあります。

弩(ど)とは、中国大陸で使用された武器です。姫原西遺跡(出雲市)出土品をもとに復元しました。中国の武器の情報が出雲にも入っていたことを示す、重要な資料です。
(ガイドブックより)

これが弥生時代後半、船の発達によって対馬海峡を往復できるようになりました。
このため、朝鮮半島が近い九州北部に弁韓の帰化人が入ってきた。
出雲国から見て、邪馬台国は異民族ですね。その異民族(=天皇の祖先)を揺り動かしたのが夷振の歌。

何というネーミングセンス!
稗田阿礼△、マジ尊敬します。