タキリビメ

なんて都合のいい解釈はできません。4拍手は死拍手。応神天皇や神功皇后に対して、「死拍手」は失礼。だが、失礼を承知の上で、死拍手しなければならない「何か」がある。
二之御殿に祀られている比売大神(ひめおおかみ)。この女神様たちへの死拍手としか考えられない。でも一体何故?

「絶対にありえないことを削除すれば、残されたものが真実なのだよ、ワトソン君」

シャーロック・ホームズの言葉が、私の背中を押してくれます。
比売大神、特に多紀理毘売命(タキリビメ)。宗像大社では沖ノ島の沖津宮に比定されているタキリビメ。消去法で、この女神様に対する死拍手としか解釈できない。だってこの女神様、大国主がナンパしたお姫様なのですから。

弥生時代最大級の「奴国」の治水事業 ~比恵遺跡群第131次調査の成果より~

比恵遺跡群(ひえいせきぐん)は、福岡平野を博多湾に向かって流れる那珂川(なかがわ)と御笠川(みかさがわ)に挟まれた低丘陵の上に立地しています。これまでの調査で、この遺跡は弥生時代から古代にかけての有力な大集落であったことが分かっています。特に弥生時代中期後半から古墳時代はじめ頃(紀元前100年~紀元後300年頃)には、『魏志倭人伝』に記された「奴国」の一大拠点であったことが、明らかになってきました。

(中略)

流路部分では、弥生時代後期から古墳時代のはじめ頃(紀元前後~紀元後300年頃)にかけて機能したと考えられる、4列の井堰(いぜき)が発見されました。井堰とは、河川や流路を木や石などでせき止めて水位を調整するための装置で、水田経営に欠かすことのできない施設の一つです。

今回発見された井堰は、主に横木とそれを支える斜めに打ち込まれた木ぐいで構築されています。水流に直交する方向に横木を置き、流れに耐えられるように多くの木ぐいで固定を図る作業を連続させて、流路の水を受けるよう緩いアーチ状に造られています。なお、横木として使われている木材には、建物に使われていた柱などを転用したものなどがありました。なかには長さ8mを超える建築材もあります。また、井堰の中からは当時の鍬(くわ)などの農具も出土しています。

この4列の井堰は、おおむね下流側から上流側に向かって補修や増築を繰り返しながら、徐々に規模を大きく強固なものにしていったと考えられます。そしてこれらの井堰は、古墳時代の4世紀頃の洪水によって壊され、埋もれてしまったようです。

今回検出された井堰の長さは約16mですが、流路の幅は約60mと想定されており、実際には、より大規模な構造であったと予測できます。また、太くて長い横木を何段も積み重ねている状態は、水流で岸がえぐられてしまうことを防ぐ護岸(ごがん)の役割も担っていたと考えられます。またこの流路は、本遺跡群が立地する台地の北を東西方向に断ち切るように掘削された、幅20m以上の流路に続くもので、井堰は台地の裾(すそ)に沿ってカーブするところに設置されていました。

今回調査された大規模な井堰は灌漑(かんがい)のみならず、周辺の治水や水運等に機能していた可能性があります。金印「漢委奴国王」を授かった頃の福岡平野の人々が、知恵と高度な土木技術で水を制御しようとした様子を伝える、極めて貴重な発見といえます。
(福岡市の文化財HPより)

例によって、下線は私が追加しました。弥生時代の井堰は、古墳時代に洪水で流されてしまったんだってさ。

古墳時代、治水技術は退化してるじゃん!
比恵遺跡群の治水跡、決して一朝一夕で造られた訳ではないでしょう。鳥取県の青谷上寺地遺跡を思い出してください。3度に渡って護岸工事が成されてましたね。比恵遺跡群の治水も、何度も行われたはず。それが古墳時代、一気に流されてしまいました。

命がけで那珂川(なかがわ)と御笠川(みかさがわ)の治水を行った大国主(=弥生時代)の技術は、古墳時代には引き継がれなかった。
比恵遺跡群から私が何を考えたか、お分かりでしょう。

多紀理毘売命(タキリビメノミコト)、間違いなく博多のお姫様です。そうでなければ、稗田阿礼が沖ノ島の沖津宮に比定できない。原文には、「胸形奧津宮神多紀理毘賣命(宗像の奧津宮の神、多紀理毘賣命)」と書かれてます。
そのタキリビメに、大国主は声をかけます。

「これで、この川の氾濫も抑えられるだろう。
ところでこれは、ボクからのささやかなプレゼントだ。
管玉と言ってね、ボクの地元で採れた碧玉で造ったネックレスなんだ。
きっと君に似合うと思うよ」

「ステキ、抱いて!」
こうして2人の間に生まれた子供が、阿遅志貴高日子根(アヂシキタカヒコネ)と下照比売(シタテルヒメ)。国譲りの時に出てきた神様です。

「どうして私を穢れた死人と間違えるのだ?」

と、ブチ切れたアヂシキタカヒコネ、別名「迦毛大御神(カモノオオミカミ)」。そしてその兄を、

「天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞや」

と、褒め称えた妹のシタテルヒメ。
そんな2人の母親が、博多の女神様タキリビメ。ここでもう一度、大国主の国譲りを整理してみましょう。

アマテラスとスサノオの誓約

アマテラス側 備考 スサノオ側 備考
アメノオシホミミ 「下界は大変騒がしい」と降臨しなかった神様
天皇のご先祖様
タキリビメ アヂシキタカヒコネとシタテルヒメの母親
アメノホヒ 3年経っても戻らなかった神様
出雲大社の宮司のご先祖様
タギツヒメ  
アマツヒコネ   イチキシマヒメ  
イクツヒコネ      
クマノクスビ      

アマテラスとスサノオの誓約で生まれた神様。古事記で活躍の場があった神様は、全て大国主の国譲りに絡んでます。例外が天若日子(アメノワカヒコ)。
シタテルヒメを嫁にして出雲国を獲ろうとして、タカギノカミの返し矢で死んでしまいましたね。シタテルヒメの泣き声は、高天原まで届きました。

そこでアヂシキタカヒコネが登場。大量(おおはかり)、神度剣(かむどのつるぎ)という特別な十拳の剣でワカヒコの喪屋を切り倒し、美濃国まで蹴り飛ばして、どこかへ飛んで行きました。しかもアヂシキタカヒコネは、ワカヒコとそっくりだった。

「その国譲れ」

と、出雲国に迫ってきたアマテラスは、邪馬台国の卑弥呼だったことは分かってます。邪馬台国が、九州を制した軍事国家だったってことも分かってます。
以上を踏まえて、最後の神話のベールを剥がす時が来たようです。

国譲りの真実(夷振の歌)

「うわ~ん、うわ~ん…」

最愛の夫、アメノワカヒコを亡くしたシタテルヒメは、まだ泣いてます。妹をどのように慰めればいいのか…
アヂシキタカヒコネは、妹にかける言葉も浮かびません。妹に、こんな悲しい思いをさせやがって…

この時のアヂシキタカヒコネの魂の叫びを、北九州出身の私が代弁しましょう。

「きさーん、何しよんか!
父ちゃんのオオクニヌシがワカヒコに妹を嫁がせたんは、出雲の国を譲るためやったんぞ!
きさんらが『その国譲れ』っち言うけ、ワカヒコに継がせるつもりやったんぞ。そのワカヒコを殺してどーするんか!
九州人どうしが殺しおうてどーするんかちゃ!
オレら兄妹の母ちゃん、タキリビメは博多の女なんぞ。オレらにもワカヒコと同じ、九州ん血が流れとるんぞ!
やけ父ちゃんは、九州人どうしを結ばせて、出雲を譲るつもりやったんよ!
それを全ぶ台無しにしよって…
それに母ちゃん、オレらの母ちゃんはのう、
アマテラスがスサノオの十拳の剣を噛み砕いて、吹いて生まれたんぞ!
知っとるんか、きさーん!」

「お兄ちゃん、もういい」

ようやく泣き止んだシタテルヒメが詠います。

「天の機織女(はたおりひめ)が首に掛けている首飾りの玉、素敵な管玉。それを邪馬台国と出雲国の間にある、深い谷に渡らせた人。それが私のお兄ちゃん、

阿遅志貴高日子根の神ぞ!」
これが夷振(ひなぶり)の歌。
古事記だけでは、この歌の意味は絶対分りません。遺跡を調べて、魏志倭人伝を調べて、いろんな神社を巡り巡って、ようやく分かった。

邪馬台国と出雲国に和平が成立したんです!
意味不明だった夷振の歌、順番に説明しましょう。
今一度、原文を確認します。

阿米那流夜淤登多那婆多能宇那賀世流多麻能美須麻流美須麻流邇阿那陀麻波夜美多邇布多和多良須阿治志貴多迦比古泥能迦微曾也

あめなるや おとたなばたの うながせる たまのみすまる みすまるに あなだまはや みたにふたわたらす あぢしきたかひこねのかみぞや

江戸時代の国文学者、本居宣長は、

天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや み谷二渡らす 阿遅志貴高日子根神ぞや

と、書き残してましたね。
項(うなじ)とはご存知の通り、首の後ろを表します。
御統(みすまる)とは、たくさんの玉を巻いて輪とし、首にかけたり腕に巻いたりして飾りとしたもの。
穴玉(あなだま)は、穴の開いた玉。「勾玉」あるいは「管玉」を意味します。
「はや」は、深い感動を表す終助詞。従って、

「天なるや 弟棚機の 項がせる 玉の御統 御統に 穴玉はや」

直訳すると、

「天の機織女が首に掛けている玉の首飾り、ああ勾玉(管玉)よ」

問題はここからです。

「み谷二渡らす」

これを、

「谷二つ、一度にお渡りになる」

と解釈されたのが大正/昭和の国文学者、武田祐吉(たけだゆうきち)先生。武田先生は、

天の世界の若い織姫の
首に懸けている珠(たま)の飾り、
その珠の飾りの大きい珠のような方、
谷二つ一度にお渡りになる
アヂシキタカヒコネの神でございます。
(青空文庫より)

と書かれてます。先生は、

「美多邇布多和多良須(みたにふたわたらす)」

これを、

「み谷二 渡らす(美多邇布多 和多良須)」

と分けられました(倉野先生も同様)。しかしながら、

「み谷 二渡らす(美多邇 布多和多良須)」

と分けると、どうなるでしょう?
さらに「み谷」を御谷/深谷と、分けて解釈すると、歌の意味合いが変わってきます。
「渡らす」も、お渡りになる/渡らせると、尊敬語/使役語に分けて解釈しても意味合いが変わってきます。
難しいですね。順番に考えましょう。

まず「み谷」。
これが仮に「み山」と書かれてるのなら、「御山」と解釈できます。日本人は、昔から山を神聖視してきたから。
しかしながら谷を神聖視してきた歴史は、日本には無い。(インカ/ペルーにはあります)
従って「み谷」は、深い谷「深谷」と解釈します。

後の解釈はマトリクス。表にしてみましょう。

美多邇布多和多良須(みたにふたわたらす)
(1) みたにふた わたらす 深い谷2つに、1つ渡らせる。
(2) みたにふた わたらす 深い谷2つに、1つお渡りになる。武田先生の解釈。
(3) みたに ふたわたらす 深い谷1つに、2つ渡らせる。私の解釈。
(4) みたに ふたわたらす 深い谷1つに、2つお渡りになる。

「ふた」を2と解釈するのは、間違いないでしょう。問題はその後。

何が2つなのか?
武田先生/倉野先生は「谷2つ」と解釈されました。 たしかに(1)の解釈は成り立たない。「2つの谷」を渡らせたものは何か、使役では説明がつきません。「1つの谷」だったら、渡らせたものは何でもOKですが。

同様に(4)、1つの深い谷に2人の方がお渡りになる。アヂシキタカヒコネとシタテルヒメの二人がお渡りになったのでしょうか?
だとしたら、シタテルヒメが「お渡りになる」と、自分で自分を尊敬したことになりますね。
結論は(2)か(3)、どちらかです。つまり「ふた」、2が前後どちらにかかるかで解釈が分かれます。

武田先生/倉野先生は(2)、私は(3)と解釈しました。私が(3)と解釈した理由は、武田先生/倉野先生が訳された「深い谷二つ」。
原文は「美多邇布多(みたにふた)」。深い谷が二つあったなら、「二つの深い谷(ふたみたに)」と書きませんか?

さらに(2)では前段の句、勾玉に繋がりません。
武田先生は「穴玉はや」を「珠の飾りの大きい珠のような方」と解釈されました。
しかしながらこれは、失礼ながら誇大解釈。「大きい」とは、どこにも書かれてません。
私は前述のように、「ああ勾玉(管玉)よ」と直訳します。するとどうなるか?

「天の機織女が首に掛けている玉の首飾り、ああ管玉よ
(その管玉を)深い谷に2つ渡らせる」

つまり、こういうことです。

こう解釈すれば、「(ふた)2」の意味が分かります。管玉の橋を2つ、深い谷に渡らせることになりますね。

天照大御神と迦毛大御神

こう考えるとアマテラスとアヂシキタカヒコネ、何故この二人だけが「大御神」なのかが初めて分ります。
アヂシキタカヒコネは、迦毛大御神(カモノオオミカミ)と書かれてましたね。

オオクニヌシは、ワカヒコと同じ九州出身の(=ワカヒコとそっくりな)迦毛大御神を邪馬台国に派遣した。迦毛大御神ことアヂシキタカヒコネは、邪馬台国に飛んで行った。そして、卑弥呼(天照大御神)とアヂシキタカヒコネ(迦毛大御神)が交渉した。結果、和平が成立。両国間の深い谷に、管玉の「輪」が繋がったんです。

歴史的大偉業を成し遂げた二人を「大御神」と呼んで当然でしょう。
この時オオクニヌシは、まさか卑弥呼に管玉のネックレスをプレゼントしたんやないやろね!?
仮に卑弥呼がオオクニヌシに抱かれてたら、どんな歴史になったのでしょう?
こればかりは、永遠の謎。

もちろん異論/反論は、たくさんあるでしょう。但し、1つだけ条件を付けさせてください。
アマテラスとアヂシキタカヒコネ、何故この二人だけが「大御神」なのかを明確に説明してから反論してください。

ちなみに天照(アマテラス)と下照(シタテル)、「天と下」、略して「天下」。
ここも対の名前になってますね。アマテラスは、

「芦原の中国は私の子、アメノオシホミミが治めるべきと知らされた国なのです」

と言って国譲りを迫りました。それに対してシタテルヒメは、夷振の歌を返した。
稗田阿礼は、邪馬台国と出雲国の対立と交渉、その結果から、対となる2人の神様を創作しています。
アマテラスも卑弥呼(日巫女)をモデルとして、稗田阿礼が創作した神様なんです。

「そんなバカな!
第11代 垂仁天皇が、伊勢神宮にアマテラスを祀ったんだぞ。
古事記が書かれた712年より前に、伊勢神宮はあったじゃないか」

そう、たしかに古事記より伊勢神宮の方が歴史は古い。
しかしながら第11代 垂仁天皇が伊勢神宮に祀ったのは、アマテラスではなく三種の神器の一つ、八咫の鏡(やたのかがみ)です。

第10代(第3代?)崇神天皇が八咫の鏡を畏れたのは当然。八咫の鏡が象徴するアマテラス(=卑弥呼)の気持ちになって考えてみてください。

「私がせっかく和平を結んだ出雲国を滅ぼすなんて、あなた達は何てことしてくれたの!」

結果、八咫の鏡は14回も引っ越すことになりました。そして天皇家は、

(1) 八咫の鏡を畏れ続けた。
(2) 八咫の鏡は今の天皇とは、血統的に無関係だから無視し続けた。

間違いなく(1)が正解です。神功皇后に憑依した神様を思い出してください。

「この国は、神功皇后の腹にいる子が統治されるべき国である」
「それでは神功皇后のお腹にいるお子さまは、君たち女の子、僕たち男の子、どちらですか?」
「男の子」
「あなた様は一体?」
「アマテラス(原文:天照大神)の御心である」

神功皇后の腹にいる子、すなわち仲哀天皇の子ではない応神天皇が統治されるべき国であると、アマテラスの御心が宣言しているのですから、八咫の鏡を畏れ続けなければならない訳にはいかない。

私が調べた限り、伊勢神宮を初めて参拝した天皇は明治天皇。800年ぶりに天皇に実権が戻ってきたためでしょう。今まで八咫の鏡を遠ざけてきたことは間違いだったと。
そうでしょ、宮内庁さん?

そして古事記は夷振の歌の後、タケミカヅチが引佐の浜で十拳の剣の上に胡坐をかいて、国譲りを迫ります。
もちろんこれも稗田阿礼の創作。大和王権が出雲国を滅ぼしたことを隠ぺいするため。
しかしながら稗田阿礼は歴史家でした。邪馬台国と出雲国に和平が成立したことを知っていた。だからタケミカヅチがアマテラスに、

「葦原の中国(=出雲国)と和平が成立した」

と、報告させる。これはウソではなかった。しかし書けない。和平が成立した出雲国を大和王権が滅ぼしたなんて、死んでも書けない。
代替えとして、夷振の歌を書き残したんです。

天皇こそ日本を治めるにふさわしい方なのだが、歴史をねつ造するわけにはいかない。
夷振の歌は稗田阿礼&太安万侶にとって、ギリギリの選択だったでしょう。

太安万侶、よくぞ夷振の歌を書き残してくれた!
夷振の歌が無かったら、邪馬台国と出雲国に和平が成立してたなんて、絶対に分からなかった。改めて、稗田阿礼と太安万侶に感謝です。
それにしても日本は、何という数奇な歴史を持ってるのでしょう。
アマテラスとスサノオの誓約、お互いの息を吹きかけて男5人/女3人、合計8人の神様が生まれましたね。

「互いの息を吹きかける」

私は、邪馬台国と出雲国の交渉、「話合い」に基づいて創作された神話だと考えてます。