考察:神功皇后の三韓征伐

繰り返しますが神功皇后の三韓征伐。古事記に何故、見え見えの大ウソが書かれたのでしょう?

「逆に考えるんだ。神功皇后の三韓征伐が無かったら、どうなったかとね」

5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)に、

「神功皇后の三韓征伐の正体を教えろください」

なんてスレを立てたら、必ずこのようなレスが返ってきます。5ちゃんを通じて、霊感ゼロの私にも神託が届いてます。三韓征伐が無かったら、

「神功皇后のお腹の子供が生まれそうになったため、腹に石を巻いて出産を遅らせた」

この理屈が通らなくなるだけ。このためだけに、見え見えの大ウソが書かれた。
何故こんな大ウソが書かれたのでしょう?
もうお分かりですね。答える前に、

「人間は、何故ウソをつくのか?」

定量的に分析してみましょう。
何でもいいんですが「浮気」を例にとって考えてみます。
夫が妻に内緒で、浮気をしてたとします。
妻が夫の浮気に気づかないうちは、夫は妻に何も言いません。ところが妻が夫の浮気に気づき始めたら、夫はウソをつきます。

「あなた、昨日の夜はどこ行ってたの?」
「スマン、急な仕事が入って徹夜で仕事してたんだ。
ウソだと思うなら、部下に確認してくれ」

これは、
「浮気をしていると言う真実」
を隠すため、ウソをついてます。隠し事をすることと、ウソをつくことは同義!
何気に大事な人生教訓です。
それでは「見え見えの大ウソ」をつくのは、どんな時でしょう?

「あなた、昨日の夜はどこ行ってたの?」
「スマン、急な仕事が入ってニューヨークに出張してたんだ。
ウソだと思うなら、トランプに確認してくれ」

このように「見え見えの大ウソ」をつくのは、浮気をしているという「真実」に気づいて欲しい場合に使用します。
「浮気が本気になった。オレと別れてくれ、忖度しろ」
要するに「空気読め」って時に、見え見えのウソをつきます。
うん、我ながら的確な分析だ!

以上に基づいて、「神功皇后の三韓征伐」のウソを見てみましょう。
まず、仲哀天皇の崩御。暗闇の中、神功皇后の神託の只中で崩御されましたね。これは、

「仲哀天皇は殺害された」

という真実を隠すためにウソをついてます。犯人はお察しください。
そして、

「神功皇后が三韓征伐した際、お腹の子供が生まれそうになったため、腹に石を巻いて出産を遅らせた」

という、見え見えの大ウソをついたのは何故?

「神功皇后のお腹の子供は、仲哀天皇の子供ではない」

という「真実」に気づいて欲しかったんです。誰に気づいて欲しかったのでしょう?

もちろん大国主に!
「あなたを滅ぼした天皇の血は、仲哀天皇で断絶しています。今の天皇は、神武天皇ゆかりの血統ではありません。従って、現在の天皇を祟るのは筋違いです。
大国主、どうか祟らないでください…」

大国主は天皇家に祟ってきましたね。祟るからには見られている。大国主は「そんなに遠くない荒れ地」に隠れて、天皇の一挙手一投足を見ている。ならば古事記に書き込めば、大国主も読んでくれるだろう。今の天皇は、あなたとは何の関係も無いことを分かってください…

皇太子(応神天皇)が、禊ぎをしたのは当然。よくあるでしょう。どっかの国の政治家が不祥事を起こし、虎の門病院に入院して、ほとぼりが冷めた頃、
「禊ぎは済んだ」
と、何事も無かったかの如く出てくることが。これは、

「今までのことは、無かったことにしよう」

と、過去をリセットしたつもりになってます。
応神天皇の禊ぎもそれと全く同じ。応神天皇は、過去の天皇の血をリセットしたつもりになる必要があったんです。
そしてスクナビコナの酒を飲みます。スクナビコナ、

「これは本当に私の子だ。あまりに小さくて私の指の間から漏れ落ちた子だ。
お前たちは兄弟となって、堅くその国を作りなさい」

と、カミムスビが言ってましたね。スクナビコナは、オオアナムチ(=大国主)の義兄弟なんです。そのスクナビコナが醸造した酒を飲んだ。

「我々は、出雲国を滅ぼした天皇とは何の関係も無い。その証拠にあなたの義兄弟、スクナビコナの酒を飲みました。
我々はあなたに敵意はありません。スクナビコナが祝い狂って醸造した盃をあなたと交わしたのですから」

稗田阿礼は、義兄弟杯という「結論」から逆算してスクナビコナを創作してます。だから、スクナビコナは(大国主の)国造りの何に貢献したのか分からない。「過程」がスカスカだったんです。

奈良時代

「大国主命、どうか今の天皇を祟らないでください」

と、古事記に書きこみ、平城京に遷都して始まった奈良時代。大国主の祟りはどうなったのでしょう?
後は歴史教科書を読めば、簡単に分かります。

聖武天皇(しょうむてんのう)の治世(724~749年)になると、疫病や天災がたびたび起こり、土地を離れ逃亡する農民も増えた。
~中略~
聖武天皇は仏教に頼って国家の安定を祈願し、全国に国分寺と国分尼寺を建て、東大寺の大仏をつくる詔を出した。

民衆を襲う疫病や天災は、大物主の心が乱れるためでしたね。三輪山の麓、大神神社の祭神が確定したのは、この頃だったはずです。少なくとも720年以降でなければ、日本書紀に書かれた大物主/大己貴神/少彦名神を祀れない。

同時に仏教に頼ってますね。結果、奈良の大仏を建立した。つまり仏教は、祟りを鎮めるための新兵器だったんです。大物主&大国主、その他いろんな魑魅魍魎の祟りを鎮めるためのスペシウム光線だったのでしょう。

そうでないと、租庸調(そようちょう)という重税を国民に課して、それを湯水のごとく投入して建立した、世界最大の銅像の説明が付かない。
私は特に、大国主の祟りを鎮めるための大仏だったと考えてます。大国主はピンポイントで天皇に祟ってきますからね。

このように聖武天皇は、様々な祟りを鎮めるため仏教の力に頼った。ところがこれが裏目に出てしまう。
歴史教科書の続きを見てみましょう。

8世紀の中ごろから貴族どうしの勢力争いがはげしくなった。また、政治に大きな力をふるった道鏡(どうきょう)のような僧も現れた。このような国政の混乱に対し、桓武天皇(かんむてんのう)は都を移すことで、政治を刷新しようと決意した。
寺院などの古い勢力が根をはる奈良の地を離れ、これまでのしがらみを断ち切った改革を実行しようとしたのである。

新しい都は794(延暦13)年、交通の便利な今の京都の地につくられた(平安京)。この都は明治維新ののちに都が東京に移るまで、約1000年もの長い期間にわたって存続した。なお、平安京への遷都から鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代とよぶ。

道鏡というのは、自らが天皇になろうとした仏教徒です。この時、「宇佐八幡宮神託事件」というイベントがあったのですが、調べてみると大変面白い。後で見てみましょう。
とにかく道鏡は、天皇になろうとした。仮に道鏡が天皇になってたとしたら、神武天皇から続く(とされる)、天皇の血が途切れてしまいます。天皇家にとって、道鏡事件は最大の危機でした。

もうお分かりですね。大国主は天皇家に祟ってきます。
仏教の力に頼ったことによって、大国主の祟りはパワーアップしてしまったんです。結果、

「遷都!」
仏教の勢力が蔓延る奈良盆地から完全に脱出。都を京都に移し、鳴くよウグイス平安時代が始まりました。
ちなみに遷都した桓武天皇は、天智天皇のひ孫です。天武天皇系が支配した奈良時代から天智天皇系へ再び移行、同時に都も平安京へ遷都されました。

平安時代

平安時代は、怨霊信仰が特に強くなった時代です。安倍晴明(あべのせいめい)に代表される陰陽師(おんみょうじ)が活躍したのもこの時代。
このような平安時代、天皇は大国主の祟りをどう考えたでしょう?

橿原の地から逃げてもダメ、古事記に「今の天皇を祟るのは筋違いです」と書き込んでもダメ、仏教の力に頼ってもダメ。大国主の祟りはパワーアップしています。

こうなったら原点回帰!
「但し、私の住む所は地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、天つ神が過ごされている高天原まで届く神殿を造って治めて頂ければ、私は『百不足八十坰手』に隠れましょう」

その通りの出雲大社を造ります。結果、「雲太、和二、京三」。

平安時代中期(970年)に書かれた「口遊」には、当時の大きな建物として、雲太、和二、京三が挙げられています。当時、大仏殿の高さは15丈(約45m)あったとされます。出雲大社は、それ以上の高さを誇ったのでしょうか。伝承では、かつては16丈(約48m)の高さがあったともいい、古代に巨大な神殿が存在した根拠の1つとされています。

ガイドブックに書かれている通りのことが起こりました。大仏殿の高さは15丈、出雲大社は16丈。測ったように、きっちり1丈高い(1丈は約3m)。てか、測ってます。このことから平安時代の出雲大社は、東大寺大仏殿より後に建てられたことが分かります。

いろんな祟り、特に大国主の祟りを静めるために建立した、奈良の大仏が収まる東大寺大仏殿より、大国主が鎮座する神殿の方が高くなければ意味が無い。

私の妄想に基づくと平安時代、出雲大社が何故、日本一の高さ48mを誇ったのか、明確に説明できるでしょう。
その後、大国主の祟りがどうなったかは、あなたがご判断下さい。私の記憶が確かならば、この後政治の実権は藤原氏に移り、源平合戦の後、いい国作ろう鎌倉幕府、武士の時代が始まります。
再び天皇に実権が戻ってくるのは1867年、大政奉還まで待たなければなりませんでした。