古事記誕生秘話

時に西暦707年、藤原京でのことです。

「『倭は国のまほろば たたなづく 青垣山籠れる 倭し麗し』
ヤマトタケルは詠いはりましたと。
古事記も、だいぶ形になってきたなあ」
「大変だ~、太安万侶さん!」
「どないしたんや稗田の阿礼はん。そんな慌てはって」
「ハアッ、ハアッ…
安万侶さん、イスケヨリヒメの出自が、やっと分りました!」
「そやそや、阿礼はんは神武天皇の正妻、イスケヨリヒメの出自を長いこと調べとったんやなあ。そんで、どうやった?」
「それが大変なんです。
イスケヨリヒメの父親は、父親は…」
「誰やったんや?
もったいぶらんと、はよ言いなはれ」

「驚かないでくださいよ、安万侶さん。
イスケヨリヒメの父親は、大国主だったんです」
「何やて、冗談も休み休み言いや」
「本当です!
古くから橿原の地に住む語り部が、やっと重い口を開いてくれたんです。
間違いありません!」
「ちょっと待ちや。神武天皇の息子、第2代〇〇天皇が出雲国を滅ぼしたんやで。
ほんなら大国主は…」
「そうです、自分の孫に滅ぼされたことになります」
「そんなアホな!
なんで、そないなことになったんや?」
「どうやら大国主は、自分の親族を三輪山の麓に移住させてたらしんです。
それで神武天皇が橿原の地を制した時、大国主の親族に箝口令が敷かれた…」
「ほんならイスケヨリヒメは…」
「ええ、どうやら自分の父親は誰なのか、知らされてなかったようです」
「そうか…
どおりで天然なとこがあったんやなあ…」

「とにかく安万侶さん、これで大国主が、なぜ天皇家を祟って来るのか分かりましたよ」
「そやなあ、自分の孫に滅ぼされたとなると、無念どころやないやろなあ…」
「どうします、古事記にそのまま書きますか?」
「あかん、絶対あかん!
大和王権が出雲国を滅ぼした。滅ぼした天皇は第2代〇〇天皇。その天皇の母方の祖父が大国主やったなんて、絶対に書けへん!」
「書けないといっても、我々は日本国の正史を任されてるんですよ。
ウソは書けないでしょう」
「その通りや。うちらが古事記にウソを書こうもんなら、大国主の祟りが増すだけや」
「それじゃ、どうするんです?」

「ええか阿礼はん、ものは書きようや。まず架空の天皇をたくさん創るんや」
「たくさんってことは、架空の天皇を8人創ると言ってますね、分かります」
「そうや。そんで神武天皇と第3代崇神天皇の間を繋いで、第2代〇〇天皇を隠すんや。
間違うても出雲国を滅ぼした、〇〇天皇の名を出したらあかん」
「ということは第3代 崇神天皇は、1引いて8足して、ちゅうちゅうタコかいな…
第10代天皇ということになりますね」
「そんでええ。お次はイスケヨリヒメの出自や。
大国主は三輪山を神聖視しとったやろ?」
「自分の親族を三輪山の麓に移住させたんですからねえ。
三輪山を神聖視するのも当然ですが、それが何か?」
「そこや、大国主が三輪山に神様を祀らせたことにするんや。
名前はそうやな…
大国主のモノ、『大物主』ちうのはどうや!」

「なるほど、『神』とか『魂』といった言葉が無かった弥生時代、『モノ』としか呼びようが無いですものねえ」
「そうや、大国主は三輪山に大物主を祀ったんや。
大国主は三輪山を神聖視しとったんやから、ウソにはならへん」
「なるほど、それで?」
「イスケヨリヒメを大物主の子供にするんや。
そしたらイスケヨリヒメの父親は、神様ちう話にできるやろ。
神武天皇は『神の子』を正妻にしたわけや。
神の子いうても、出雲族の娘を直接、神武天皇の正妻にする訳にはいかへん。
そやから、正妻らしい名に改名したことにするんや。
富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ:ホト of 姫)から、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ:姫 of 姫)に」

「でも、肝心の〇〇天皇が出雲国を滅ぼしたことはどうするんです?」
「それも書きようや。神武天皇は大国主の娘を正妻にしたんやろ。
娘を譲ってもろたようなもんや。国も同じや。
出雲国を譲ってもろたことにしたら、話の筋は通る」
「譲ってもらったって誰に?
〇〇天皇の名は出せないのでしょう?」
「そこでアマテラスの出番や。天皇のご先祖様に譲ってもろたことにしたら、出雲国はアマテラスの子孫の天皇が引き継ぐちう話になるやろ。
そもそもアマテラスこと卑弥呼は、出雲国を譲れ言うとったんやから」
「なるほど、さすが太安万侶さん。20世紀に墓が発見されて、安万侶さんの実在が証明されただけのことはある。
それに引き替え私は、21世紀になっても実在が疑われて挙句の果て、
『稗田阿礼は女性だった』
と、噂される始末…」
「阿礼はん、メタってる場合やあらへん。問題は、この藤原京や。
えらいとこに京を作ってしもうたもんやで」
「そうですねえ、神武天皇ゆかりの地、三輪山の麓に京を造ったのに…」

「逃げるんや」
「えっ?」
「橿原の地から逃げるんや!」
「でも藤原京が完成してから、13年しか経ってないですよ」
「そんな悠長なこと、言うてられへん。
このまま藤原京に住んどったら、どんだけ大国主が祟って来るか…
とにかく逃げるんや!」
「逃げるって何処へ?」
「どこでもええから逃げるんや!
これから文武天皇(もんむてんのう)に奏上してくるわ」

「大変だ~、太安万侶様!」
「なんや、どないしたんや役人A。
わしはこれから、文武天皇に大事な話があるんや。
用があるんやったら後にしい!」
「そっ、その文武天皇が崩御されました」

「何だって――!!」
「そんな…
文武天皇は、まだ25歳じゃないか。一体どうして?
安万侶さん、これってやっぱり大国主の祟り…」
「あばっ、あばば…
あかん、絶対あかん!
舎人の親王はん、あんたは日本書紀、うちらは古事記。
お互い干渉せんよう縦割りでやっとりますけど、どないやろ?
このまま藤原京で政を行っといてええと思いまっか?」

「リアルにヤバイっす!」
「親王はんもそう思われまっか。橿原の地からはよ逃げなあかん。
役人A、次の天皇は誰になるんや?」
「はあ、文武天皇のお子さま、後に第45代聖武天皇(しょうむてんのう)となられる首(おびと)皇子は、まだ7歳。ここは崩御された文武天皇の母上が、中継ぎで元明天皇(げんめいてんのう)になられるかと」
「お前もメタらんでええ。はよ元明天皇に奏上せんとあかん」
「奏上せんとあかんって安万侶さん、腰が抜けてますよ」

翌708年。

「というわけで元明天皇、このまま橿原の地で政を続けとったら、どんだけ大国主の祟りが襲いかかって来るか、分かったもんやありまへん。
元明天皇、どうかご決断を…」

「遷都!」
こうして710年、藤原京から平城京へ遷都することとなりました。
藤原京の歴史を年表で見てみましょう。

690年 持統天皇の時代、着工
694年 藤原京完成
697年 文武天皇即位
701年 大宝律令制定
707年 文武天皇崩御、元明天皇即位
708年 平城遷都の詔
710年 平城京遷都

平城京への遷都が決まった708年から、わずか2年で遷都しています。藤原京は東西5km以上に広がる、広大な京だったことが発掘調査から分かってます。平城京/平安京より広かった。4年かけて造営された藤原京を、わずか16年で捨ててるんです。
しかも、遷都が決まったのが708年。遷都を急ぐ必要がどこにあったのか?
間違いなく、何かに気づいたんです。遷都を急がねばならない「何か」に。

例えば現在、首都を東京から2年で埼玉県に遷都できると思いますか?
税金に糸目を付けなければ、不可能ではないかもしれません。跳んで埼玉県という「受け皿」があるから。ところが奈良時代、平城京という受け皿は全く無かったんです。ゼロから平城京を造って2年で遷都した。
何故、急いで平城京に遷都したのでしょう?

交通の便が悪かった、(排水上の問題で)不衛生だった、唐の都と違っていた、藤原不比等(ふじわらのふひと)の思惑だった等、いろいろ調べましたが、遷都の理由には定説は無いようです。

そもそも大宝律令の制定に貢献した藤原不比等が、藤原京(日本書紀によると新益京『あらましきょう』)からの遷都を奏上するはずがない。むしろ遷都に反対していたと考えます。
仮に、藤原不比等主導で遷都したのなら「平城京」ではなく、「シン・藤原京」とか「藤原京PART2」などと、後世で呼称されたはず。さらに、

「何故、急いで遷都したのか?」

研究している人は、私が調べた限り見つかりませんでした。

「2年で遷都した理由は、大国主の祟りの正体に気づいたから」

一発で説明できます。大国主は天皇家に祟ってくるから、一刻も早く三輪山の麓から逃げ出さねばならなかった。
賛否両論はあるでしょう。その前に私が何故、こう考えたかを説明させてください。

大神神社

「2年で遷都した理由は、大国主の祟りの正体に気づいたから」

私がこう考えたトリガー(きっかけ)は、奈良県桜井市にある大神(おおみわ)神社でした。
大神神社、ここは行ったことはありません。が、三輪山そのものをご神体として祀る、珍しい形式の神社であることは知ってました。当然、大物主が祀られてるだろうと思い、調べてみました。以降は、ウィキペディアからの抜粋です。

大神神社は三輪山(三諸山)を神体山としているため本殿をもたず、山中には上から奥津磐座(おきついわくら)、中津磐座(なかついわくら)、辺津磐座(へついわくら)の3つの磐座がある。
三輪山から出土する須恵器の大半は、大阪府堺市の泉北丘陵にある陶邑(すえむら)古窯址群で焼かれたとされており、大田田根子が陶邑から見いだされたという伝承と一致する。
大田田根子の子孫はのちに三輪氏となり、さらにのちに大神氏、大三輪氏となった。

これは、日本書記に基づいた記述。古事記では前に記した通り、「河内の美努村(大阪府八尾市あたり)」でオオタタネコが見つかったと書かれてます。人代記に入ると、やはり日本書紀の方が信用できるみたい。

とにかくオオタタネコは、実在した人のようですね。その子孫が三輪氏(みわうじ)、大三輪氏(おおみわうじ)となった。ここから大神と書いて「おおみわ」と読む、当て字が生まれたのでしょう。
続いて、大神神社のHPを参照してみましょう。

三輪山は、奈良盆地をめぐる青垣山の中でもひときわ形の整った円錐形の山です。古来、大物主大神が鎮まる神の山として信仰され、『古事記』や『日本書紀』には、御諸山(みもろやま)、美和山、三諸岳(みもろだけ)と記されています。

山中には神霊が鎮まる岩が点在し、磐座(いわくら)と呼ばれて信仰の対象となっています。神社の古い縁起書には、頂上の磐座に大物主大神(おおものぬしのおおかみ)、中腹の磐座には大己貴神(おおなむちのかみ)、麓の磐座には少彦名神(すくなひこなのかみ)が鎮まると記されています。

辺津磐座(へついわくら)というのは、三輪山の麓に散在する、大小様々な石のことです。中津磐座(なかついわくら)と奥津磐座(おきついわくら)は、それぞれ三輪山の中腹/山頂付近にある、大きな一枚岩のことを指します。
三輪山にある岩が、

奥津磐座 :大物主
中津磐座 :大己貴神(=大国主)
辺津磐座 :少彦名神

と、祀られてる訳ですね。

びっくりしました。出雲国のナンバー1、2、3が祀られている。三輪山は、出雲国の象徴と言っても過言ではない。

「あんたら、そんなところに住んでて怖くないの?」

稗田阿礼&太安万侶を「あんたら」呼ばわりして礼を失してしまう程、ビックリしました。
よくこんなところに、都(藤原京)を造ったなあ。
驚きと同時に、2つの疑問が湧きました。

(1) 大国主ではなく、大己貴神(おおなむちのかみ)として祀られてるのは何故か?
(2) 少彦名神(すくなひこなのかみ)が祀られてるのは何故か?

大物主は大国主の「幸魂/奇魂」なのですから、大国主も祀られてるのは分かります。が、どうしてオオナムチという幼名で祀られてる?
それ以上に疑問なのがスクナヒコナ。オオナムチと出雲の国造りをした、小人の神様です。三輪山とは全く関係ない。それが何故、大神神社に祀られてる??

「大穴牟遅(オオアナムチ)と少名毘古那(スクナビコナ)の2人の神は、肩を並べて堅くこの国を作りました。
そしてスクナビコナは、常世(とこよ)の国に渡ってしまいました。」

古事記には、こう書かれてましたね。国造りの何に貢献したのかも分からない、小人の神様スクナビコナ。それが何故、三輪山の麓に辺津磐座として祀られている?

大穴牟遅(オオアナムチ)/大己貴(オオナムチ)、大国主の幼名でした。少名毘古那(スクナビコナ)/少彦名神(スクナヒコナ)、記紀によって呼称に違いはあれど、大国主の国造りに貢献した小人の神様です。繰り返しますが2人とも、三輪山とは全く関係ありません。それが何故、三輪山に祀られている?

オオアナムチとスクナビコナ、スクナヒコナとオオナムチ…

あ!
オオ・ナムチとスクナ・ヒコナ、大小「対」の名前になってますね。
稗田阿礼、三輪山の麓に散在する大小の石、辺津磐からヒントを得て小人の神様、スクナビコナを創作したな。そして「対」となるオオアナムチを中津磐から創作、さらに大国主の魂である大物主を奥津磐から創作した。

三輪山信仰

順番に考えましょう。まず弥生時代、大国主は後に御諸山/三輪山と称される、「大和を取り囲む山々の東の山」を神聖視した。理由は自分の親族をその麓に移住させたため。
山を神聖視することは、縄文時代からあったはずです。少なくとも弥生時代、山岳信仰は確実に存在した。

そりゃそうです。山から流れる「石清水」が無ければ田畑は作れない。山に棲む、シカやイノシシが居ないとタンパク質が獲れない。そして山は、時に集中豪雨によって枯れ、川を氾濫させる。何故そうなるのか、気象知識がない当時の人には分からない。

自然の恵みと脅威は表裏一体、山を神聖視して当然です。そこに古墳時代、岩信仰(巨石信仰)が結びついた。

磐座(いわくら)と呼ばれる、岩(石)を神聖視するようになったのは古墳時代からです。弥生時代に岩を神聖視する理由は無いし、海女の存在が書かれている魏志倭人伝にも、磐座信仰の記述は無い。

「意富多多泥古(オオタタネコ)に、わしを祀らせるがいい。
そうすれば流行病は治まる」

第10代 崇神天皇の神床に現れたのは、三輪山の神様「大神」です。大物主ではない。
古墳時代、崇神天皇が畏れ、オオタタネコに祀らせた三輪山はこう。

この図をご覧ください。出雲国とは全く関係ない。関連付けたのは稗田阿礼です。

「何故オオタタネコに大神を祀らせたら、流行病が治まったのか?」

稗田阿礼は調べたはずです。結果、オオタタネコの出自に行きついた。
オオタタネコの祖先に大国主の血が入っていた。大国主は現在(奈良時代)の三輪山を神聖視していた。その子孫であるオオタタネコが三輪山(奥津磐)に鎮座する大神を祀ったから、流行病が治まった。

同じく神武天皇の正妻である、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)。これも出雲族だった。しかも大国主の近親だった。

「ホムチワケの口がきけないのは、わしの祟りのせいなのじゃ」

第11代 垂仁天皇の夢に現れた、出雲大神の祟りの正体に稗田阿礼は気づいた。何故、大国主は天皇に祟って来るのか、その理由に気づいた。それは自分の孫(or ひ孫)に滅ぼされたから。

神武東征は、(卑弥呼が送り出したのですから)2世紀後半から3世紀前半のイベント。崇神天皇は、3世紀後半から4世紀前半の天皇。この間を繋ぐには、天皇は1代か2代で十分。
「古事記誕生秘話」では簡略化して、1代として創作しました。大国主の孫である〇〇天皇が、出雲国を滅ぼした。

何と言う運命の皮肉!
神武天皇が高佐士野(三輪山の北)で出会った、8人ではなく7人の乙女たち。その中から選んだ正妻が、大国主の娘だったとは…

「何という八千矛パワー!
大国主の子供は、一体何人いたんだ?
感心している場合ではない。古事記にどう書けばいい?」

稗田阿礼は悩んだはずです。悩みながら三輪山の麓を散歩してました。そこで見たのが、古墳時代から神聖視されている辺津磐座(へついわくら)。そこからヒントを得て、少名毘古那(スクナビコナ)という小人の神様を創作した。

「そうだ、弥生時代終末期に起こったイベントを神話化すればいい。
そうすれば、神武天皇の正妻の出自も神話化することができる。
まず、スクナビコナ(辺津磐座)という小人のパートナーと、オオクニヌシ(中津磐)に国造りさせ、大物主(奥津磐)に引き継がせる」

稗田阿礼に出雲神話の骨格が出来上がって行きます。その時、大国主の声が響きました。

「お主、よくそんなウソを思いつくな。
わしは、奈良盆地を取り囲む山々の東の山を神聖視しただけじゃ!
三輪山も少名毘古那(スクナビコナ)も大物主も、わしは知らんぞ!」

そうだった、大国主は現在「三輪山」と呼ばれる山を神聖視しただけだった。そこに磐座信仰は無い。
それでは、スクナビコナと大穴牟遅(オオアナムチ)が国造りをしたことにしよう。

「スクナビコナは大国主と固く国造りをした」

と書かなければウソにはならない。スクナビコナは(大国主ではなく)、オオアナムチと固く国造りをした。
そして大国主が、名前も分からない神様を大和を取り囲む山々の東の山に祀らせたことにしよう。その神様を「大物主」と、後世の人間が勝手に呼ぶのは問題ない。現に我々は、「大和を取り囲む山々の東の山」を三輪山と呼んでいるのだから。

そして大物主に奇想天外な夜這いをかけさせ、イスケヨリヒメとオオタタネコの出自に神話のベールをかける。
単なる推測で書いてるわけではありません。こう考えないと、

「何故3人の神様、特に少彦名神(スクナヒコナ)が三輪山に祀られているのか?」

説明が付かないんです。

「いや、オオアナムチとスクナビコナの国造りの結果、奈良盆地が五穀豊穣の地となったと考えれば、スクナビコナが三輪山に祀られているのも不思議ではない」

と解釈することもできますが、ソース(証拠)がない。そもそも三輪山に祀られたのは、スクナビコナが常世の国に去った後に登場した大物主です。

こうして稗田阿礼は、三輪山からヒントを得て出雲神話を創作しました。結果、古事記(正確には日本書紀)に基づき大神神社が誕生、三輪山は出雲国の象徴となりました。
そして、大急ぎで藤原京から平城京に遷都した。

以上は、もちろん私の推測です。妄想と言ってもいい。しかしながらこの妄想に、かなりの自信があります。
私の妄想に基づくと、古事記の大ウソの謎や、奈良時代から平安時代への流れが芋づる式に解けてくるんです。まずは「古事記の大ウソ」から読み解いてみましょう。