弥生時代終末の真実

弥生時代後半(2世紀末)、倭国大乱を経て、邪馬台国の女王卑弥呼は、九州を統一しました。日本史上初の「軍事統一国家」の誕生です。武器もある、防具もある、戦術もある。そんな卑弥呼は、何を考えたでしょう?

日本征服です。
このため卑弥呼は、2つの戦略を立てました。

(1) 出雲国に脅しをかけること
(2) 奈良盆地を制すること

当時、本州や四国には、治水で各地に大きな影響力を持っていた、巨大な出雲国が存在しました。その出雲国に「その国を譲れ」と脅しをかける。
同時に奈良盆地を制する。理由は、オオクニヌシが考えたことと全く同じ。

寒冷化すれば、北部九州も雪で覆われます。温暖な地に移住しようとするのは当然。
地政学的な理由もあります。九州は日本を征服するには、出雲国よりさらに西過ぎる。もっと東に行かなくては、日本を制することはできない。

これまで九州北部は、出雲国だったところです。国(クニ)と言っても、我々が考える「国境」は存在しない。「出雲に存在した巨大な勢力」は、北部九州の治水を行いました。
そこに船の発達によって大陸との交流が可能になり、急速に鉄器が入ってきた。このため、九州に領地を奪い合う争いが起こった。これが倭国大乱。そして「国(クニ)」という概念が、日本に生まれた。

それを統一した卑弥呼は、もちろん知っていました。九州より東に、広大な土地があったことを。そして、今でいう中国地方から北陸地方にかけて、巨大な影響力を持っていた「出雲」という「クニ」が存在していたことを。

まず、アメノワカヒコという使者を、勝手に「クニ」と認定された出雲に派遣して、領地を譲るようオオクニヌシに迫ります。オオクニヌシはワカヒコに自分の娘、シタテルヒメを嫁がせます。そうすれば、自分の後継ぎをワカヒコにすることができる。いわゆる政略結婚ですが、オオクニヌシは本当にワカヒコに継がせるつもりでした。

「いつまで交渉に戸惑ってるの!」

卑弥呼は出雲に使者を送りました。そこで驚くべきことを知ります。ワカヒコは、オオクニヌシの娘と結婚していたことを。

「ワカヒコ、何をやっている。我々を裏切ったな!」

ワカヒコは、邪馬台国の使者に殺されてしまいました。夫を殺されたシタテルヒメは、泣き崩れてしまいます。

「そうか、クニを譲れというのは、武力で我々を滅ぼそうということか」

シタテルヒメの兄、アヂシキタカヒコネは、ワカヒコを殺した邪馬台国の使者に伝えます。

「そっちが武力で来るのなら、我々も戦う覚悟がある。
帰って卑弥呼に、そう伝えろ!」

こうしてシタテルヒメの泣き声は、邪馬台国まで届きました。

一方卑弥呼は、同時に奈良盆地を制することも考えてました。卑弥呼から見れば、そこも出雲国の領土。そう簡単に奈良の地を制することはできない。卑弥呼は、邪馬台国最強の戦闘集団を率いる高千穂宮の王、イワレヒコに白羽の矢を立てました。

「天の言葉を伝えます。奈良盆地を制圧しなさい。
陸路では出雲国に阻まれてしまう。海路で東を目指しなさい」

卑巫女は神託を告げます。神がかりになったように自分の戦略を告げる。当時はこのようにして、カリスマ性&正当性を保ってました。

イワレヒコ。日向(南九州)の高千穂宮の王。母系に弁韓の血を持った、屈強な戦士です。卑弥呼が統一した30ほどの小国の中でも、ミチノオミ/オオクメという兵士を率いた最強軍団。イワレヒコ軍団は神託どうり、海路で東を目指します。途中、食料補給のため広島県の多祁理宮、岡山県の高嶋宮という集落を襲います。

ところで奈良盆地は、何処にあるのか?

イワレヒコにとって、本州は未知の土地。そこで近畿近くの島で、サオネツヒコという近畿の地理に詳しい水先案内人を雇うことにしました。こうしてイワレヒコ軍団は、大阪湾を目指します。

多祁理宮/高嶋宮が九州から東上する集団に襲われたことは、出雲にも届いたことでしょう。どうやらその集団は、奈良盆地を目指しているらしい。
出雲は近畿に兵士を派遣します。仮に、この兵士たちが間に合わなかったとしても、既に近畿には出雲の兵士がいました。理由は後で説明します。

イワレヒコ軍団は大阪湾に到着しました。そこで待ち構えていたのはナガスネヒコ率いる、ナガスネヒコ/イズモ連合軍。連合軍はイワレヒコ軍団を撃退します。いくら邪馬台国最強の戦士たちでも、大阪平野では多勢に無勢。数の論理で退却を余儀なくされます。

「奈良盆地に入るための山岳地帯は無いか?」
「紀伊半島を迂回したところに、熊野の村があります。そこから西に山を越えると、奈良の地です」

サオネツヒコの案内に従い紀伊半島を迂回、熊野に到着しました。
さすがに兵士にも疲れが出ています。熊野の人たちは、イワレヒコ軍団を介抱しました。

「ここは何だ?
堀も無いし、物見やぐらも無い」

倭国大乱を経験したイワレヒコ達にとって、熊野は不思議な土地に見えたことでしょう。
熊野で英気を養ったイワレヒコ軍団は、西を目指して奈良県東部の山岳地帯に入ります。もちろん遭難しないよう、八咫烏(ヤタガラス)という「鳥のように、広い地理に精通した」案内人を雇って。

途中、食料補給のためエウカシ村や土雲村を襲撃します。それでもイワレヒコ軍団の胃袋を満たすことはできませんでした。当時の近畿地方の集落は、九州のクニ程の規模ではなかったからです。

イワレヒコ軍団は、八咫烏に導かれて奈良盆地に到着。待ち構えていたナガスネヒコ/イズモ連合軍と再決戦です。

「今度は平地の白兵戦とは違うぞ、散れ!」

イワレヒコ軍団は散開します。そして大声を上げて木々を揺らします。
魏の戦術、疎陣(そじん)が抜群の効果を発揮しました。

「あいつら、いつの間に戦力を増強した?
大阪平野で戦った兵力から数倍も増兵している!」

疎陣はナガスネヒコの目をくらませます。

「今だ、かかれ!」

奈良盆地に密集隊形をとっていたナガスネヒコ/イズモ連合軍に、イワレヒコ散開軍団が山から斬り込みます。結果、ナガスネヒコ/イズモ連合軍は全滅。イワレヒコは奈良盆地、橿原の地を制圧します。
しかしまだ、近畿地方には戦力が残ってました。物部氏の祖となるニギハヤヒ軍団。

「ニギハヤヒ様、ナガスネヒコ様たちの仇をとりましょう!」
「いや待て、待つんだ。降伏するんだ!」

ニギハヤヒは、ナガスネヒコ/イズモ連合軍が全滅した理由に気づきました。数の上では、はるかに優位なのに、少数部隊のイワレヒコ軍団に敗れた理由に。

「何だ、あれは?
奴らが上半身に着けているものは何だ?
木を加工したものを胸と腹に巻き付けている。
それに奴らが片手に持っている、木の板は何だ?
奴らは木の板で、剣の攻撃を防いでいる。
あれでは剣が、奴らの身体にまともに入らない…」

そう、防具です!
倭国大乱の経験で、九州の戦士は防具を身に着けてました。戦闘経験の少ない本州には、防具はまだ無かった。
青谷上寺地遺跡の殺傷痕のある人骨を思い出してください。倭国大乱と同時期の遺跡でした。1本の肋骨に3カ所も斬りつけられた跡がありましたね。鎧を装備していたら、肋骨にあのような傷は入らない。

ニギハヤヒはイワレヒコに降伏、服従します。
これが神武東征。橿原の地に大王(おおきみ)と物部氏が誕生しました。以降、大王/物部氏と称します。
大王は物部氏に防具の作り方、使い方、そして戦術を教えます。以降物部氏は、大王の武力を担当する氏(うじ)となります。

大王/物部氏には、あまり時間がありません。橿原の地でナガスネヒコ/イズモ連合軍が全滅したことは、オオクニヌシに伝わっているはず。出雲が防具を備えたら、戦いは長期化する。数の論理から、こっちの方が不利になる。

大王/物部軍団は、出雲を制圧しようと出兵します。そこに思わぬ天の助けがありました。但馬国のアメノヒボコです。
オオクニヌシによって但馬国に閉じ込められていたアメノヒボコは大王/物部軍団に加勢、播磨国を制圧します。そこを拠点として、吉備国から出雲の戦士を駆逐します。

ここまで来れば出雲は目と鼻の先。一気に出雲に攻め入ります。
戦いは熾烈を極めたはず。出雲にとっては本土決戦です。絶対に負けられない!

「やつらは変なものを上半身に巻き付けている。が、背中は我々と同じだ。
数ではこっちが勝っている。2人掛かりでかかれ!
1人は正面から、もう1人は背後から斬りつけるんだ!」

「オオ――!!」
タテミナカタの檄が飛びます。出雲族が大王/物部軍団を押し返します。
弓矢が飛び交い、鉄剣/鉄矛で斬り合う、原始的な白兵戦。しかしその意味は、我々が認識する「戦さ」とは違う。天下分け目の関ヶ原でもない、南北朝時代の皇位継承争いでもない。
「日本の王」を決める、日本史上最初で最後の決戦!
どちらも負けるわけにはいきません。

「円陣を組め――!」
大王/物部軍団は集団で円陣を組み、背中を防御します。これでは出雲族は背中を狙えない。

「どうやら指揮をしているのは、あいつ(タテミナカタ)のようだ。
数陣(密集陣形)で奴を倒せ!」

次から次へと戦術を変える攻撃。これがターミネーター、タテミカズチの正体。
結果、タテミナカタは討ち取られコトシロヌシは入水自殺。オオクニヌシは引佐の浜で「百不足八十坰手」に隠れた。残された出雲の戦士たちは、遠い信濃国の諏訪湖畔、縄文時代が色濃く残る未開の地に幽閉されました。
時に西暦250年。プラマイ10年のどこかで、いつの間にか「国(クニ)」と名付けられた「出雲国の国譲り」が行われました。

卑弥呼は、遅くとも248年には亡くなってます。国譲りを見定めることができたかどうかは、定かではありません。卑弥呼は計算違いしてました。邪馬台国No.1の戦力、イワレヒコを動かしたのがマズかった。南九州で隼人族を服従させた日向の高千穂の最強軍団、イワレヒコを東征させたことが裏目に出た。

イワレヒコが居なくなったため、薩摩隼人こと狗奴国、熊襲が卑弥呼に反乱を起こしたんです。結果、九州は再び分裂、倭国(=九州)は再び乱れることになりました。そんなことはお構いなしに、奈良盆地に大和王権が誕生しました。

「これがヤヨイコウハンに起こった出来事と考えるんだが、どうかなワトソン君?」

大王と豪族

それにしても卑弥呼とは「日巫女」、アマテラスだとは夢にも思ってませんでした。全ては頭を白い紙にして考えた結果です。

「しかし大和王権の大王は、蘇我氏などの豪族に手を焼いたじゃあないか。物部氏だけを服従させただけで、出雲国を攻められるか?」

昔の自分なら、こうツッコミます。たしかに蘇我氏の横暴を封じるのは、645年の大化の改新まで待たなければなりませんでした。さらに、全ての中央豪族の力を抑えられたのが672年の壬申の乱。

大和王権時代の豪族は、水木先生が調査されてます。「水木しげるの古代出雲」には、こんな豪族分布図が描かれています。

これでは物部氏だけを服従させても、大王の思い通りにはならないでしょう。そこで、各豪族を調べてみました。

まずは蘇我氏。古事記に出てくる武内宿禰(たけしうちのすくね)を祖としています。武内宿禰とは、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたとされる忠臣。つまり初代神武天皇が橿原の地を制した時、蘇我氏は存在しなかったんです。

同様に平群氏(へぐりうじ)、ミサトさんのご先祖様かもしれない葛城氏(かつらぎうじ)も、武内宿禰を祖としています。

巨勢氏(こせうじ)は、武内宿禰の次男である許勢小柄宿禰(こせのおからのすくね)が始祖。
秦氏(はたうじ)は第15代応神天皇の時代、百済から日本に帰化した弓月君(ゆづきのきみ)を祖としています。

和珥氏(わにうじ)の始祖は、第5代孝昭天皇の長男、天足彦国押人命(あめたらしひこくにおしひとのみこと)。

以上のように神武東征時、奈良盆地に存在した豪族は物部氏だけ。
例外が大伴氏(おおともうじ)。大伴氏は天忍日命(アメノオシヒノミコト)の子孫。本書では省略しましたが、ニニギノミコトのお供をした、天孫降臨時に初登場したアメノオシヒノミコトを祖としています。イワレヒコと一緒に東征した、道臣命(ミチノオミノミコト)の子孫が大伴氏です。つまり大伴氏は、大王の懐刀。

以上のことから神武天皇の時代、奈良盆地の豪族分布図はこうなります。

これなら神武天皇は、物部氏を服従させるだけでいい。時代が経つにつれ、おそらく4世紀ごろ豪族たちは誕生、次第に勢力を増したのでしょう。

これで本書の目的である、弥生時代終末期に何があったのか、明らかにしたつもりです。
だが、気になることが1つある。それは大物主の正体。

大物主の正体

大物主、大国主が三輪山に祀った神様です。古事記では、名前も名乗らない神様を「大和を取り囲む山々の東の山の上」に祀ったとありました。弥生時代、御諸山とか三輪山とか、山に名前は付いて無かったのでしょう。そんな奈良盆地東の山頂に、大国主は神様を祀った。この神様が大年神。その子供が大国御魂神(オオクニミタマノカミ)、後に大物主と呼ばれるようになった。

日本書記には、大国主の幸魂/奇魂(さきみたま/くしみたま)と書かれてましたね。
とにかく大国主が三輪山を神聖視していたことは間違いない。ここから大国主は、奈良盆地への移住を考えていたと考察しました。

しかしそれだけで、三輪山を神聖視するでしょうか?

奈良盆地に移住してから神聖視すればいいじゃないですか。移住する前の三輪山に、神様を祀るなんて考えられない。ここが、ずっと引っかかってました。
何故、大国主は三輪山を神聖視したのでしょう?

大国主の魂と解釈される大物主。夜這いの達人が何をしたのか、整理してみましょう。
大物主が夜這いをかけたのは、日本書紀を含めると3回。

1回目は、勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)。生まれた子が伊須気余理比売(イスケヨリヒメ)。イスケヨリヒメは、神武天皇の正妻となりました。

2回目は、倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)。百襲姫(モモソヒメ)は、箸でホトを突いて死んでしまいます。つまり子供は生まれなかった。おそらくこれが、古事記で省略された理由でしょう。

3回目は、活玉依毘売(イクタマヨリビメ)。2人の間に生まれた子の子孫が意富多多泥古(オオタタネコ)。三輪山を祀る始祖となった人です。オオタタネコは大阪の八尾市で見つかりましたね。それを崇神天皇は、三輪山の麓に呼び戻した。

こうして整理すると、大物主は神武東征以前に、奈良盆地に住んでいた人々のご先祖様なのですね。年神様と解釈される大年神が夜這いをかけるわけにはいかない。大年神の子供である大国御魂神(オオクニミタマノカミ)にも、夜這いをかけさせられない。何と言っても「大きな国の魂」なのですから。

そこで大物主を創作した稗田阿礼の考えは分ります。だがそこに何故、大国主の魂が絡んでくる?
奈良盆地に住んでいた人々の祖先に何故、大国主の魂が絡んでくるんだ?

この疑問にたどり着いた時、閃きました。
ある日、大国主はたくさんの嫁や息子/娘たちを集めて言いました。

「出雲の地も寒くなった。毎年雪が積もるし、作物の育ちも良くない。
東に行ったところに、山々に囲まれた温暖な土地がある。
お前たちは、そこに行きなさい。
私も後で行くから」

こうして大国主が三輪山の麓、奈良盆地に多くの親族を移住させてたとしたらどうでしょう。もちろん出雲の兵士を護衛につけて。

「大和を取り囲む山々の東の山の神様、どうかあの子らをお守りください…」

これなら納得できる!
大国主が三輪山を神聖視して当然!
淀川の治水を行った大国主の親族が奈良盆地にやって来るんです。ナガスネヒコも大歓迎だったことでしょう。こうして近畿地方に、ナガスネヒコ/イズモ連合軍が誕生した。

こう考えた時、私は恐ろしいことに気づきました。考えるだけでも恐ろしいことに。
以下は、いくつかの状況証拠に基づいて私が創作した、恐ろしい古事記誕生秘話です。