| 倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。
魏志倭人伝: 後漢書東夷伝: 桓帝・霊帝の治世の間(147年~189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。 |
ちなみに、
(1) 魏志倭人伝の成立は、3世紀末
(2) 後漢書東夷伝の成立は、5世紀初頭
中国大陸は後漢の後に、魏/呉/蜀という三国志の時代に入りましたが、伝記の成立順序は逆。魏志倭人伝の後に、後漢書東夷伝が成立しています。このためか、(2)には(1)に記述されてないことが追記されています。
これまた(2)のソースが不明なため、どこまで信用していいのか分かりませんが、金印が出土しているので、記されている年号は信用して考えてみましょう。
その前に1つ、気になることがありませんか?
| (1) 魏志倭人伝 | :「一人の女子を共に王に立てた(原文:共立一女子爲王)」 |
| (2) 後漢書東夷伝 | :「ここに於いて共に王に立てた(原文:於是共立爲王)」 |
「共に王に立てた」と記述されてます。
魏志倭人伝に記載されている倭国とは、九州と考察しましたね。そこに共に王に立てた。
邪馬台国の卑弥呼は、九州を統一したんです。30ほどの小国が、共に(卑弥呼を)王に立てた。倭国=九州として(1)、(2)を読めば、答えはこうなるはずです。
魏志倭人伝には、(抜粋しましたが)以下のようなクニが記載されてます。

九州のどこが奴国で、九州のどこが邪馬台国なのか、ソースが不明確ですから特定不能。個人的には、
(1) 邪馬台国の南に狗奴国が存在した
(2) 当時の国は(出雲国のように)、主に海岸線に存在した
ことから、邪馬台国は宮崎県の海岸線、日向市あたりに存在したと考えてますが、あくまでも個人の感想。
次に年号。後漢書東夷伝によると、桓帝・霊帝の治世の間に、倭国は大いに乱れたとあります。桓帝・霊帝の治世の間を分割してみましょう。
調べてみると桓帝・霊帝とは、後漢の桓帝(147~168)と霊帝(168~189)の間ということですから、2世紀後半ということになります。この間に倭国大乱が起こった。それでは倭国大乱とは、いつからいつまでだったのでしょう?

ざっくり、4パターンに分けてみました。倭国大乱は、遅くても西暦168年には始まって無ければならない。そうでなければ桓帝・霊帝の治世の間、争うことはできないから。
私的には、パターン2と考えるのが普通だと思います。少なくとも30ほどの小国が、40年も争えたとは考えにくいから。しかしながら結論は、パターン1かパターン4。
これが倭国大乱の時代です。そうでなければならない理由がある。それは卑弥呼の寿命。卑弥呼が死んだのは、西暦248年とされてます。3世紀半ばまで、卑弥呼は生きてたことになりますね。
卑弥呼が北部九州を統一したのが霊帝の終わり、189年だったとしましょう。仮に卑弥呼が、その時20歳だったとします。
西暦189年で20歳ということは、248年に死んだとすると、卑弥呼は享年79歳。15歳だったとしても享年74歳。
鳥取県の青谷上寺地遺跡から出土した人骨から、弥生時代の平均寿命は50~60歳だったと分ってます。つまり卑弥呼の寿命が長すぎるんです。
従って倭国大乱は霊帝の時代、できるだけ遅く終わってくれないと困る。
しかしそんなに長く、30の小国が争うことができたでしょうか?
「桓帝・霊帝の治世の間、倭国は大いに乱れた」
後漢書東夷伝の記述です。
「大いに」という、書いた人の主観が入ってますね。書いた人にとって「大いに乱れた」とは、どの程度乱れたら大いに乱れたことになるのでしょう?
10人対10人、合計20人が争ったことが大いに乱れた?
30あまりの小国が、40年以上争い続けたことが大いに乱れた?
2~3年に1回、隣接する小国が、小競り合いを続けたことが大いに乱れた?
主観や予断、全て「個人の感想」です。だから私は、
「天皇がオオクニヌシの祟りを畏れた理由は、出雲国を滅ぼしたから。が、それ以上の『何か』があった」
と考えたことは、個人の感想と断わりました。
それでは倭国大乱を、個人の感想を外して定量的に見てみましょう。


