倭国大乱

倭国大乱(わこくたいらん)は、弥生時代後期の2世紀後半に倭国で起こったとされる争乱。中国の複数の史書に記述が見られる。倭国の地域は特定されていないが、列島規模であったとする見方もあり、日本史上初の大規模な戦争(内戦)だとする意見もある。

魏志倭人伝:
其の国もまた、元々男子を王として70~80年を経ていた。倭国は乱れ、何年も攻め合った。そこで一人の女子を共に王に立てた。名は卑弥呼という。鬼道を用いてよく衆を惑わした。成人となっていたが夫は無かった。

後漢書東夷伝:
建武中元二年(57年)に、倭奴国(なこく:現在の福岡市付近に存在したと推定される国)が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が、福岡県の志賀島で出土している。

桓帝・霊帝の治世の間(147年~189年)、倭国は大いに乱れ、さらに互いに攻め合い、何年も主がいなかった。卑弥呼という名の一人の女子が有り、年長だが嫁いでいなかった。鬼神道を用いてよく衆を妖しく惑わした。ここに於いて共に王に立てた。
(ウィキペディアより抜粋)

ちなみに、

(1) 魏志倭人伝の成立は、3世紀末
(2) 後漢書東夷伝の成立は、5世紀初頭

中国大陸は後漢の後に、魏/呉/蜀という三国志の時代に入りましたが、伝記の成立順序は逆。魏志倭人伝の後に、後漢書東夷伝が成立しています。このためか、(2)には(1)に記述されてないことが追記されています。
これまた(2)のソースが不明なため、どこまで信用していいのか分かりませんが、金印が出土しているので、記されている年号は信用して考えてみましょう。
その前に1つ、気になることがありませんか?

(1) 魏志倭人伝  :「一人の女子を共に王に立てた(原文:共立一女子爲王)」
(2) 後漢書東夷伝 :「ここに於いて共に王に立てた(原文:於是共立爲王)」

「共に王に立てた」と記述されてます。
魏志倭人伝に記載されている倭国とは、九州と考察しましたね。そこに共に王に立てた。
邪馬台国の卑弥呼は、九州を統一したんです。30ほどの小国が、共に(卑弥呼を)王に立てた。倭国=九州として(1)、(2)を読めば、答えはこうなるはずです。

魏志倭人伝には、(抜粋しましたが)以下のようなクニが記載されてます。

九州のどこが奴国で、九州のどこが邪馬台国なのか、ソースが不明確ですから特定不能。個人的には、

(1) 邪馬台国の南に狗奴国が存在した
(2) 当時の国は(出雲国のように)、主に海岸線に存在した

ことから、邪馬台国は宮崎県の海岸線、日向市あたりに存在したと考えてますが、あくまでも個人の感想。

次に年号。後漢書東夷伝によると、桓帝・霊帝の治世の間に、倭国は大いに乱れたとあります。桓帝・霊帝の治世の間を分割してみましょう。
調べてみると桓帝・霊帝とは、後漢の桓帝(147~168)と霊帝(168~189)の間ということですから、2世紀後半ということになります。この間に倭国大乱が起こった。それでは倭国大乱とは、いつからいつまでだったのでしょう?

ざっくり、4パターンに分けてみました。倭国大乱は、遅くても西暦168年には始まって無ければならない。そうでなければ桓帝・霊帝の治世の間、争うことはできないから。

私的には、パターン2と考えるのが普通だと思います。少なくとも30ほどの小国が、40年も争えたとは考えにくいから。しかしながら結論は、パターン1かパターン4。

これが倭国大乱の時代です。そうでなければならない理由がある。それは卑弥呼の寿命。卑弥呼が死んだのは、西暦248年とされてます。3世紀半ばまで、卑弥呼は生きてたことになりますね。

卑弥呼が北部九州を統一したのが霊帝の終わり、189年だったとしましょう。仮に卑弥呼が、その時20歳だったとします。
西暦189年で20歳ということは、248年に死んだとすると、卑弥呼は享年79歳。15歳だったとしても享年74歳。

鳥取県の青谷上寺地遺跡から出土した人骨から、弥生時代の平均寿命は50~60歳だったと分ってます。つまり卑弥呼の寿命が長すぎるんです。
従って倭国大乱は霊帝の時代、できるだけ遅く終わってくれないと困る。
しかしそんなに長く、30の小国が争うことができたでしょうか?

「桓帝・霊帝の治世の間、倭国は大いに乱れた」

後漢書東夷伝の記述です。
「大いに」という、書いた人の主観が入ってますね。書いた人にとって「大いに乱れた」とは、どの程度乱れたら大いに乱れたことになるのでしょう?

10人対10人、合計20人が争ったことが大いに乱れた?
30あまりの小国が、40年以上争い続けたことが大いに乱れた?
2~3年に1回、隣接する小国が、小競り合いを続けたことが大いに乱れた?

主観や予断、全て「個人の感想」です。だから私は、

「天皇がオオクニヌシの祟りを畏れた理由は、出雲国を滅ぼしたから。が、それ以上の『何か』があった」

と考えたことは、個人の感想と断わりました。
それでは倭国大乱を、個人の感想を外して定量的に見てみましょう。

吉野ヶ里遺跡

吉野ヶ里(よしのがり)遺跡、佐賀県にある弥生時代の遺跡です。

二重の堀や物見やぐらのある弥生後期の集落跡。むらが次第に、くにへと発展していく様子が分かる。(歴史教科書より)

年がら年中争ってたのなら、二重の堀や物見やぐらを造ることはできません。争いは短期間で終了した。このため次の戦いに備えて、敵の攻撃を防御する二重の堀や物見やぐらを造る時間があった。

吉野ヶ里遺跡、これが卑弥呼が統一した30あまりの小国の1つです。繰り返しますが、邪馬台国が九州にあったとすれば、吉野ヶ里遺跡が「クニ」の遺跡であるはず。もっと言うと、吉野ヶ里遺跡こそが邪馬台国だったと考える研究者もいます。
とにかくここから、倭国大乱の規模が推定できます。
吉野ヶ里遺跡公園のHPに記載されてます。

守りの様子
東の正門を始め、吉野ヶ里は外壕に7カ所、南北内郭に3ヶ所の入口が確認されています。
こうした入口では、兵士たちが厳重に警備をしていたと考えられます。
手には敵の攻撃から身を守る盾と敵を攻撃する矛や弓を持ち、また体には木で作った鎧を着ていたと考えられています。

吉野ヶ里の人口はどれくらいだったの?
現時点で、最盛期には外環壕の内部におよそ1200人、吉野ヶ里を中心とするクニ全体では、5400人くらいの人々が住んでいたのではないかと考えられています。

外環壕の内部、戦国時代でいう「城内」に1200人住んでいたのですから、この人たちが「戦士」だったのでしょう。その他の人たちは老人か女性か子供たち。
倭国大乱は、1000~1500人くらいの兵士を持つクニ(小国)が30ほどあって、クニどうしが20~40年間争ったことになります。その間、二重の堀や物見やぐらを造る時間があった。争いは、(多く見て)年に2~3回程度のスパン(間隔)で断続的に続いたんです。規模は1000~1500人くらい。戦国時代の戦さとは桁が違います。

これを倭国大乱、あるいは第一次戦国時代と呼ぶべきか、はたまた九州地方の内乱と呼ぶべきか、あなたのご判断にお任せします。
個人的にはクニの規模から察して、20年くらいの争いだったと考えます(パターン4)。
まとめると、

(1) 2世紀後半、九州で30程度のクニどうしの争いが起こった。
(2) その規模は多く見て、1000~1500人くらいの戦士の戦いだった。
(3) 結果、卑弥呼という巫女が30のクニをまとめた。これが倭国。

小さなムラがやがて大きくなり、クニとなった。
歴史教科書に書かれている弥生時代の歴史。これ、九州の歴史じゃなかですか。
繰り返しますがその当時、巨大な出雲国があったことは、墳丘や銅剣/銅矛/銅鐸の分布から明らかです。それが今でも神話として語り継がれ、日本の歴史となってない。
これも、稗田阿礼&太安万侶のおかげですね。

巫女と神託

「倭の国には3世紀ごろに邪馬台国という強国があって、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた。卑弥呼は神に仕え、まじないによって政治を行う不思議な力を持っていた」

歴史教科書に書かれているように、卑弥呼は神の言葉を伝える巫女だったようです。崇神天皇が神床で神託を受けたのも、魏志倭人伝を書いた人から見れば、

「まじないによって政治を行う不思議な力を持っていた」

のでしょうね。このように魏から見ると、「神託」は異文化の不思議な「まじない」だったのでしょう。そう言えば出雲国には、巫女はいませんでした。ガイドブックに載っている遺跡(=出雲地方の遺跡)からは、骨を焼いて入ったヒビから吉凶を占う「骨卜(こつぼく)」跡は出土してません。古事記には太占(ふとまに)と書かれている骨卜。オオクニヌシから見ても、神託は「不思議なまじない」に見えたことでしょう。

不思議なまじないの正体、個人的には「お天気占い」が主だったと考えてます。稲作が始まった弥生時代、気象予報士がいたとしたら、どれだけ貴重な存在だったことか…

卑弥呼は、お天気おばさんお姉さんだった!

意外と正解かもしれませんよ。
ところで、殺傷痕のある人骨が発見された鳥取県の青谷上寺地遺跡からは、骨卜占いの道具である骨、「卜骨(ぼっこつ)」が出土しています。つまり青谷上寺地遺跡からは、出雲国とは異なる文化遺跡が発掘されてるんです。

出雲神話で、ヤガミヒメはオオクニヌシとの子供を木の又に挟んで帰ってしまいましたね。この部分、因幡国と出雲国との分裂を意味しているのかもしれないと考察しました。
出雲国とは異なる文化を独自ルートで発展させた青谷上寺地遺跡。ここがヤガミヒメの里だったのかもしれません。