出雲大社

ご存知の通りオオクニヌシ、大国主命は出雲大社に鎮座しています。平安時代の出雲大社は、高さが48mもあったらしい。その1/10の復元模型がこれ。古代出雲歴史博物館に展示されてます。

口遊(くちずさみ)
平安時代、貴族の子供たちの教科書として用いられたと言われるもの。「大屋(大きい建物)」のベスト3として、「雲太(大社の本殿)」、「和二(東大寺の大仏殿)」、「京三(平安京の大極殿)」と記してあります。

雲太、和二、京三
平安時代中期(970年)に書かれた「口遊」には、当時の大きな建物として、雲太、和二、京三が挙げられています。当時、大仏殿の高さは15丈(約45m)あったとされます。出雲大社は、それ以上の高さを誇ったのでしょうか。伝承では、かつては16丈(約48m)の高さがあったともいい、古代に巨大な神殿が存在した根拠の1つとされています。
(ガイドブックより)

木造建築で48mもの高層建築が可能だったかどうか、意見が分かれてます。が、とりあえずは物的証拠も発見されてます。

巨大柱の顕現
2000年から2001年にかけて、出雲大社境内から13世紀前半ごろ(鎌倉時代)の巨大な柱が3カ所で発見されました。1本の直径が約1.35mのスギ材を3本組にしたもので、さしわたし約3mもあります。柱の配置や構造は、いにしえの巨大本殿設計図とされる、「金輪御造営差図(かなわのごぞうぞうえいさしず)」に描かれたものとよく似てます。柱を埋めた大きな穴には、ひとかかえもあるような大きな石がぎっしりと詰めてありました。このような堀立柱の地下構造は、史上最大で世界に例を見ないものです。

1248 (宝治2) 年の本殿遺構
心御柱(しんのみはしら)の下に置かれていた板材の年輪や柱材の放射性炭素同位対比による化学分析と、考古学による土器の年代、文献上の造営記録などを総合すると、1248(宝治2)年に造営された本殿跡の可能性が高いと思われます。当時、異例の規模を誇る壮大な神殿が、この地にそびえていたのでしょうか。考古学、歴史学、建築学の分野において、大きな論争を巻き起こしてます。
(ガイドブックより)

この時発見された「宇豆柱(うずばしら)」が、ご覧のように古代出雲歴史博物館に展示されてます。
心御柱(しんのみはしら)は、出雲大社の宝物殿に展示されてますが写真撮影不可。

「とりあえずは物的証拠も発見された」と言った通り、これは鎌倉時代の遺跡。これを基に復元された神殿がこれ。48mの復元模型もありますが、それ以下の高さだったという模型もありますね。
平安時代の48mの遺跡は、発見されてません。そもそも、そんな巨大木造建築が可能なのか?
大林組のHPに答えがありました。

「古代出雲大社本殿の復元」

という本が出版されてます。ネットで、その本のダイジェスト版も閲覧できます。大林組プロジェクトチームが検証した結果、高さ48mの楽しい木造建築は可能。
平安時代、48mの神殿が本当にあったようです。でなければ貴族の子供たちの教科書に、「雲太、和二、京三」と書けない。
ちなみにこれは、「出雲太郎、大和二郎、京三郎」の略です。
これ、とんでもない事ですよ。例えば戦国時代、織田信長が武田家を滅ぼした時、

「敵ながら、あっぱれ!」

と、安土城より高くて立派な日本一の武田城を甲斐の地に自費で建ててやるようなもの。
そんなことが平安時代、実際に起こったんです。いやほんと、マジで信じられない。
何故そんなことが起こったのか?
オオクニヌシの祟りを畏れたためでしょう。

「私の住む所は地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く神殿を造って治めて頂ければ、私は『百不足八十坰手』に隠れましょう」

平安時代、その通りの出雲大社が建造されたんです。

本殿内部構造

これは昔話ではありません。現在進行形の出雲大社。本殿の内部構造は、こうなってます。パワポ(PowerPoint)で、忠実にトレースしました。
私は中学生か高校生の頃、何かの本でこの図を見たことがあります。
「男の隠れ家」と言うんでしょうか。私は子供の頃から押入れの奥など、狭い場所が大好きでした。今でも狭いビジネスホテルに泊まった時、

「明日の朝食バイキングに命をかけるぞ!」

と、ワクワクします。
子供の頃、出雲大社本殿の内部構造図を見た時、

「出雲大社、秘密基地みたいでカッコいい!」

と、思ったものです。
大人になった今、これを見直すと、本当の意味が分かりました。

これ、牢屋ですよ!
オオクニヌシを牢屋の奥に閉じ込めて、扉を閉めて「御客座五神」が監視しています。

「出雲大社に、お客様として座している5人の神様」、

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)
神産巣日神(カミムスヒノカミ)
宇摩志阿斯訶備比古遲神 (ウマシアシカビヒコチノカミ)
天之常立神(アメノトコタチノカミ)

5神そろって、別天津神(コトアマツカミ)!
さあ、出てきました。天地創造で始まった古事記。最初に現れた5人の神様が、オオクニヌシが脱獄しないか、監視してます。
出雲大社が修造された最古の記録は659年(日本書記より)。
古事記が書かれた半世紀以上前に、出雲大社が修造されてました。本当に、思わぬところで古事記の伏線が回収されました。
仮に659年から大社の内部構造がこうだったとすると、古事記の別天津神は、出雲大社の御客座五神から引用したことになりますね。

イザナギでもない、イザナミでもない、ましてやアマテラスでもない。天地創造時に現れた、ナンバー1からナンバー5の神様が5人がかりで、オオクニヌシが脱獄しないか監視してます。

どれだけオオクニヌシの祟りを畏れてるんだ?
出雲国を滅ぼしたとしても、ここまで畏れるか?
ヤマトタケルが熊襲や蝦夷を滅ぼしたとしても、大和王権は、これらの国々を畏れてないじゃあないか。
出雲国を滅ぼした以上の「何か」を畏れているような気がしてきました。

繰り返しますが、これは現在進行中の話です。ご存知の方も多いでしょうが、大国主命は西の引佐の浜を向いて鎮座しています。つまり参拝客に対して、横を向いている。しかも「板仕切」に閉ざされて。

参拝客の方を向いているのは、今でも御客座五神、別天津神。「別にやることがある天つ神」です。出雲大社本殿を参拝する人は、大国主命を参拝してるつもりなのに、これでは御客座五神を参拝してることになりますね。
横を向いてるオオクニヌシには、本殿西から参拝しなければならない。このため、本殿西にも小さな賽銭箱が置かれてます。
それでは本殿西から参拝しなければ、オオクニヌシを参拝したことにならない?

ご心配なく。出雲大社の鳥居をくぐると、すぐに目に入るのは「拝殿」。「本殿」ではありません。大社を訪れた多くの方は、拝殿で参拝されてます。拝殿に「2礼4拍手1礼」すれば、大国主命を参拝したことになります。

「平成の大遷宮」というのがあって、2008年から2016年にかけて、本殿や境内の社殿はリフォームされました。出雲大社は、60~70年くらいの間隔でリフォームされるようです。
ちなみにアマテラスの伊勢神宮は、20年ごとに建て替えられてますね。

平成の大遷宮は、宝物殿の改修や庁舎の建て替え等、2019年まで続きました。特に2008年から2013年にかけて、本殿改修のため、オオクニヌシのご神体は拝殿に鎮座していました。ここからも拝殿を参拝すれば、大国主命を参拝したことになることが分かります。
ところで平成の大遷宮。本殿の改修工事を行ってた頃、何かで見たか、読んだかした記憶があります。

本殿中心の「心御柱(しんのみはしら)」は、大黒柱になってないことを。

本殿天井の構造がどうなってるか知りませんが、この程度の木造建築なら、天井をトラス構造(三角形を基本単位として構成する構造)にすれば、中心に柱が無くても十分強度を確保できる。
しかしながら平安時代や鎌倉時代の高層建築では、心御柱は絶対に大黒柱だったはず。本殿の荷重は、その中心の柱にもっとも圧力をかけます。心御柱が無ければ、あのような高層建築は不可能。

心御柱は、今は本殿の荷重を支えてないのか…
本殿を支えるため、前後の宇豆柱に梁(はり)を渡しているはず。心御柱は、梁に接合されてるんだろうなあ。
こんなことを考えながら、出雲大社本殿の内部構造図を眺めてました…

!!
わずかに心御柱が、本殿中心から左にずれている!
これ、私のトレースミスではありません。出雲大社内部構造を記した図をネットで検索して、3種見つけました。そのうち2つ、心御柱が中心からわずかに左にずれている。

(1) 心御柱は、現在でも本殿中心に存在する
(2) 心御柱は、現在では本殿中心から左にずれている

どっちが正解でしょう?
正解は(2)。ソースは出雲大社。「平成の大遷宮」に伴い2008年、約60年ぶりに本殿の特別拝観が行われました。特別に本殿内部が一般公開された訳です。
その時、「特別拝観のしおり」が配布されました。しおりには、出雲大社の内部構造が描かれてますが、やはり心御柱は本殿中心から左にずれています。
「出雲大社 特別拝観のしおり」で、画像検索してみてください。(2)が正解だと、出雲大社が宣言していることが分かりますから。

心御柱を左にずらすとどうなるか?
オオクニヌシをより牢屋の奥に閉じ込めることができる。そして、板仕切を広くして参拝者から、より多くオオクニヌシを隠すことができます。

誰がいつ、心御柱を左にずらした?
楽しくなってきました。シャーロック・ホームズ好きの血が騒ぐぜ!

考察:心御柱がずれた時期

少なくとも鎌倉時代までは、心御柱は絶対に大黒柱だったはず。繰り返しますが、そうでなければ、あのような高層建築は不可能。

巨大本殿を描いた図
(金輪御造営差図:かなわのごぞうえいさしず)
出雲大社の宮司を務める千家国造家に伝わる図で、いにしえの本殿の平面設計図とされるものです。境内遺跡出土の巨大柱と規模・構造・配列に共通する部分があり、本殿建築の復元を巡る論争の鍵となっています。
(ガイドブックより)

設計図があって鎌倉時代の遺跡と共通するということは、心御柱がずれたのは室町時代以降ということになりますね。
歴史の下限は分りました。それでは上限を調べてみましょう。

現在の出雲大社本殿が建築されたのは1744年。以降、本殿はリフォームを繰り返しています。古代出雲歴史博物館に、その模型があります。

大社造(たいしゃづくり) 出雲大社本殿模型
正面2間 × 側面2間、切妻造妻入り(きりづまづくりつまいり)、檜皮葺(ひわだぶき)。千木(ちぎ)までの高さは約24mで、国内随一の高大な本殿建築です。江戸時代前半、1667(寛文(かんぶん)7)年の造替峙、中世以来の仏教色を排除し、当時の考え方として、より古い形式に「復古」した建築でもあります。
国宝/1744(延享(えんきょう)元)年造替 模型縮尺1/50

出雲大社復元模型(寛文期)
1667年、徳川幕府から造営料として、銀2000貫(約7.5t)の提供を受けて完成した出雲大社。高さ8丈(24m)を誇る本殿には、「復古」の精神がこめられています。
(ガイドブックより)

確実に言えることは、遅くとも1744年には心御柱がずれていた。これ以降、本殿はリフォームを繰り返しているのだから。
つまり、室町時代から江戸時代までのどこかで心御柱がずれた。
もっと掘り下げられないか?

「江戸時代前半、1667(寛文7)年の造替峙、中世以来の仏教色を排除し、当時の考え方として、より古い形式に「復古」した建築でもあります」

中世以来の仏教色を排除したって、何でしょう?
ウィキペディアに答えがありました。

祭神の変化
出雲国造新任時に、朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった。

やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった(本来、国引きは八束水臣津野命)。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き凶徒を射ち国域の太平を築く」と、杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には、「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

さらには鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。また江戸時代初期には、社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の営管理に関する交渉を実施していた。

ところが杵築大社(出雲大社)内は、仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して、寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて、祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って、大国主大神に復した。

平安時代のいつからか、江戸時代(1667年)まで、出雲大社の祭神はスサノオだったんですね。祭神がスサノオじゃ、心御柱をずらす必要は無い。スサノオを牢屋の奥に閉じ込める必要は無いですから。
そもそも神話界のゴジラ、スサノオを牢屋に閉じ込めようと考える人は、今も昔も誰もいません。

心御柱が本殿中心からずれたのはズバリ、祭神がオオクニヌシに戻った1667年です。
改めて、本殿はオオクニヌシを閉じ込める牢屋だったことが分かります。

大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。これは、本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。

ウィキペディアに書かれていることが真実ならば、心御柱をずらす必要は無い。
牢屋の奥深くにオオクニヌシを閉じ込めるため、心御柱をずらした。だから心御柱が中心からずれたのは、祭神がオオクニヌシに戻った1667年。こう考えないと、心御柱がずれた説明が付かない筈です。
が、これでは逆にオオクニヌシの祟りを増大させるのではないのか?

「私を牢屋の奥に閉じ込めやがって!」

はじめは、本殿の内部構造を設計した建築士(デザイナー)の感性を疑いました。しかしながら、どうやら違う。
1667年、心御柱をずらした建築士は、オオクニヌシの祟りを増大させたかった可能性が高い。既にヒントは出ています。

「1667年、徳川幕府から造営料として、銀2000貫(約7.5t)の提供を受けて完成した出雲大社」

出雲大社造替のスポンサーは徳川幕府です。思い出してください。オオクニヌシは天皇家に祟ってきましたね。徳川幕府がオオクニヌシの祟りをどう考えたか?
後は、お察しください。

まとめると、天皇はオオクニヌシの祟りを畏れた。理由は出雲国を大和王権が滅ぼしたから。ここまでは間違いないでしょう。が、それ以上の「何か」があった。
出雲大社の内部構造から、このような感じを受けました。あくまでも「個人の感想」ですが…

話は変わって、弥生時代を調べるためには、どうしても触れなければならない資料がある。これまでも、ちょいちょい出てきた資料。そう、魏志倭人伝です。