第11代 垂仁天皇

垂仁天皇(すいにんてんのう)は、嫁である狭穂姫命(サホヒメノミコト)に暗殺されかかったことがあります。
サホヒメノミコトは、兄の狭穂彦王(サホヒコノミコ)に唆されて、天皇を殺そうとしました。が、ギリギリのところで踏みとどまり、子供を残して兄と共に焼け死ぬという、戦国時代のような場面があります。

それより、残された子供がポイント。その子供は、誉津別命(ホムチワケノミコト)と言います。ホムチワケは生まれつき、口をきくことができませんでした。
これが垂仁天皇の悩みの種になりました。

「どうしてホムチワケは、口がきけないのだろう?」

いろいろ悩んだ末、先代の崇神天皇と同様、眠りに入りました。すると、一人の神様が現れました。

「お主、悩んでおるな?」
「出た、夜這いの達人!」
「夜這いの達人?
お主、ひょっとして、わしを他の誰かと勘違いしておらぬか?
わしは夜這いをかけたことは…
あるっちゃあ、あるが、達人の域には達しておらぬ」
「えっ、あなた様は先代の神床に現れた、オオモノヌシ様ではないのですか?」
「オオモノヌシ?
三輪山に祀った、わしの幸魂/奇魂(さきみたま/くしみたま)ではないか。
お主、話してみよ。オオモノヌシが何故、夜這いの達人なのじゃ?」
「はあ、実はかくかくしかじかでして…」
「何と!
あやつ、わしが三輪山に祀ったのをいいことに、そんなことをしておったのか…
まあ、わしの魂じゃから、しゃーないっちゃあ、しゃーないか」
「ところで、あなた様は?」

「うむ、わしこそが大国主(オオクニヌシ)。オオモノヌシの本体じゃ!」
「オオクニヌシ様!
伝説の種馬、神話界のディープインパクトと呼ばれる…」
「面白いことを言う。たしかにわしは、系で言えばヘイルトゥリーズン系。
お主の祖先である、アマテラス直系のノーザンダンサー系ではない。
お互い元をたどれば、『イザナギ』というダーレーアラビアンにたどり着くわけじゃが」
「そんな馬の血統を話すために現れたんですか?」
「話を振ってきたのは、お主であろう。まあよい、話を戻そう。
お主、悩んでおるな?」
「それはもう伺いました」

「お主の悩みは、息子のホムチワケが喋れないことであろう」
「!!
その通りでございます!」
「それは、わしの祟りのせいなのじゃ」
「どういうことで?
何故、私の息子を祟るのです?」
「お主は知らぬかもしれぬが、わしはお主の祖先、アマテラスと約束したのじゃ。

『私の住む所は地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く神殿を造って治めて頂ければ、私は『百不足八十坰手』に隠れましょう』

と。じゃが、その約束が未だに果たされておらぬ。
これでは、『百不足八十坰手』に隠れるわけにはいかんのじゃ」
「それでは、あなた様の社を、
『地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く神殿』
にすれば、ホムチワケも口がきけるようになると?」
「直ぐにとは言わぬ。まずは我が宮を天皇の宮殿のように立派に造営し直せば、お主の息子は口がきけるようになるであろう」

この部分、原文ではオオクニヌシとは書かれてません。夢に現れた神様は誰なのか、太占(ふとまに)で占ったところ、

「祟りは出雲大神の御心なり」

と、結果が出たようです(原文:祟出雲大神之御心)。とにかく原文に、しっかり「祟り」と書かれてます。

ホムチワケは色々gdgdした結果、曙立王(アケタツノミコ)と菟上王(ウナカミノオウ)を従者として、出雲大神を参拝しました。そして帰り道、斐伊川の川辺で休息します。そこに出雲国造の祖、岐比佐都美(キヒサツミ)が青葉の山を川下に立て、ご馳走を持ってきました。
これまたドリフのコントのように、青葉の山を描いた背景幕(書割:かきわり)を立てて、もてなしたわけです。その時、

「青葉の山のように見えるのは、山のようで山ではない。出雲の石垣の宮におられる葦原色許男(あしはらしこを)大神の社、祝の大庭ではないか」

喋った!
青葉の山と見せかけて、大国主の社を描いた書割をご覧になったホムチワケ様が喋られた!
従者は早速、この時代には存在しなかった馬を走らせ、垂仁天皇に報告します。
一方、喋れるようになったホムチワケは、すかさず出雲の肥長比売(ヒナガヒメ)に、よせばいいのに夜這いをかけます。ヒナガヒメの正体は蛇でした。

オオモノヌシの正体も蛇でしたね。このように古代出雲には、蛇というイメージが付いて回ります。そう言えば、ヤマタノオロチ(八俣遠呂智)も「八岐大蛇」と訳されてますね。

とにかくホムチワケは、恐ろしくなって逃げ出しました。ヒナガヒメは海原を光らせて、ホムチワケの船を追ってきます。そこでホムチワケは船を捨て、陸路で逃げました。どうやら、ヒナガヒメは海蛇だったようです。
ホムチワケは大和に戻り、何事も無かったようにキリッと報告します。

「出雲大神に参拝し、私は喋れるようになったので、ここに参上仕りました!」

垂仁天皇は大いに喜び、ホムチワケの従者ウナカミノオウを出雲に返し、宮を造営させました。

その他、垂仁天皇記には、多遅魔毛理(タジマモリ)を常世国(とこよのくに)に行かせて、不老不死の「時じくの香しい木の実(原文:登岐士玖能迦玖能木實)」を探させ、やっとタジマモリがその実を見つけて帰ったら、垂仁天皇は既に崩御されてたりする話があるんですがオミット。
それより、ここまでの話を振り返ってみましょう。

第10代 崇神天皇は、オオクニヌシの魂、オオモノヌシを畏れ奉った。
第11代 垂仁天皇は、オオクニヌシの祟りを畏れ奉った。

間違いないです。大和王権は出雲国を滅ぼしてます。滅ぼしてなければ畏れ奉ることはできない。しかも、実在が確かと言われる第10代崇神天皇から第11代垂仁天皇と、立て続けに出雲国の神様を畏れ奉っている。

ここから、稗田阿礼の思惑(=創作)も垣間見れますが、どの天皇(大王)が出雲国を滅ぼしたのでしょう?
欠史八代と、何か関係がありそうですね。
ところで、やみくもに祟りを畏れた訳では無い。

大物主は、民衆に祟ってくる
大国主は、天皇家に祟ってくる

きちんと棲み分けて畏れています。ここ、覚えといてください。
この後、第12代 景行天皇に、前述の「ヤマトタケル神話」が書かれてます。

さて、古事記を読むのはここで終了したいんですが、気になることがあるので、番外編として2点見ておきます。

番外編その1:アマテラス

第10代 崇神天皇の娘、豊鉏入比売命(トヨスキイリヒメノミコト)は、伊勢大神(イセノオオカミ)の宮を礼拝しました。
第11代 垂仁天皇の娘、倭比賣命(ヤマトヒメノミコト)は、伊勢大神の宮を礼拝しました。

「伊勢大神の宮」とはもちろん、アマテラスが祀られている伊勢神宮のことです。
伊勢神宮に関しては、古事記にはこれだけしか書かれてません。
が、日本書紀が補ってくれます。それによると、

垂仁天皇は、天照大神(アマテラスオオカミ)を豊耜入姫命(トヨスキイリビメノミコト)から離し、倭姫命(ヤマトヒメノミコト)に託しました。ヤマトヒメは、アマテラスが鎮座する場所を求めて、菟田(うだ)の筱幡(ササハタ)に来ました。
(菟田、古事記では「宇陀」と書かれてましたね)
そこから引き返して近江国へ入り、さらに東の美濃を廻って伊勢国に至りました。
その時アマテラスは、ヤマトヒメに言いました。

「神風が吹く伊勢国は、常世の国からやってくる波が幾重にも寄せては返る国です。傍国(かたくに:大和の傍の国)ですが、とても美しい国。私はこの国に居たいと思います」

そこでヤマトヒメは、五十鈴川の川上に磯宮(いそのみや)を建てました。これがアマテラスが降臨した地、伊勢神宮です。

伊勢神宮の公式HPによると、アマテラスは近江や美濃を廻って、14回も引っ越したそうです。短期間でも居た14カ所を「元伊勢」と言うらしい。
何故アマテラスは、14回も引っ越したのか?

「舎人親王の奴、オレたちがぼかしてたことをバラしやがって…」

稗田阿礼と太安万侶は、苦笑いしたことでしょう。
アマテラスの引っ越しの理由に気づいた時、私は思わず笑ってしまいました。
お引っ越しの理由、頭を白い紙にすれば分ります。

勝者の論理を削除して、大和王権が成立したばかりの時代にタイムスリップしてみてください。そこに伊勢神宮は無い。天皇(大王)が誕生したばかりの時代です。
従って、天皇陛下を敬う気持ちも無い。起立して「君が代」を斉唱する、日本人の普通の感覚も無い。
そうして大和王権成立時の、近畿地方に住んでいた人たちの気持ちになってみれば、答えが出ます。

「九州からやって来た侵略者の神様を祀る場所なんて、ここには無いよ」
「オレたちはオオクニヌシさまに、お世話になったんだ」
「そうそう、好色な方だったけど、私たちの土地を豊かにして下さった方だよ」
「そんなオオクニヌシ様の出雲国を、あんたらは滅ぼしたんだって?」
「おまけに、ナガスネヒコ様まで殺してしまうなんて」
「あんたらの顔も見たくないよ」
「帰った、帰った!」
「悪いな、他をあたってくれよ」
「逝ってよし!」
「もう止めて、アマテラスのHPはゼロよ」

と、名乗りを挙げたのが三重の地。初代神武天皇が上陸した地でした。
「三輪」と「三重」。共に縁起のいい3。共通の謂れがあるのかもしれませんね。
ところで何故、崇神天皇はアマテラスを引っ越させたのでしょう?
これまた日本書紀が、一部をバラしてくれてます。

第10代 崇神天皇の時代、アマテラスと倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)は、天皇が住む宮殿に並べて祀っていました。すると、この2神の勢いを畏れ、共に住むのは不安になりました(原文:然畏其神勢共住不安)。
そこでアマテラスをトヨスキイリヒメに託して、倭の笠縫邑(かさぬいむら:奈良県磯城郡田原本町あたり)に祀りました。そこに磯堅城神籬(しかたきひもろぎ:一時的な神社)を立てました。

一方ヤマトノオオクニタマは、渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ:崇神天皇の娘)に祀らせました。しかし、ヌナキノイリヒメは髪が抜け落ち、痩せ衰えて祀ることが出来ませんでした。

日本書紀では、ここでオオモノヌシが登場します。崇神天皇に、

「大田田根子に、わしを祀らせるのじゃ」

と言うのですが、それだけではありません。倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサジハラマクワシヒメ)ら3人が、同じ夢を見ます。

「大物主と倭大国魂、それぞれ大田田根子と市磯長尾市(イチシノナガオチ)に祀らせるよう告げられました」

倭迹速神浅茅原目妙姫(ヤマトトハヤカムアサジハラマクワシヒメ)、箸でホトを衝いて死んだ倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)と解釈されてます。夢のお告げを奏上してますからモモソヒメは、やはり崇神天皇に仕えた巫女ですね。

まとめると日本書紀には、「大物主に加えて倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)も畏れた」と書かれてます。
倭大国魂、奈良県天理市にある大和神社の祭神です。一般的に、オオクニヌシの荒魂(あらたま)とされています。調べてみると、

荒魂(あらたま) :神の荒ぶる魂
和魂(にぎたま) :神の優しく平和的な側面

和魂はさらに、幸魂/奇魂(さきみたま/くしみたま)の2つに分けて定義されます。つまり大国主(オオクニヌシ)の、

(1) 荒魂は、大和神社に市磯長尾市(イチシノナガオチ)が祀った
(2) 和魂(幸魂/奇魂)は、三輪山に大田田根子(オオタタネコ) が祀った

こうして崇神天皇は、畏れるオオクニヌシの魂を祀りました。これは納得。
しかしながら何故、ご先祖様であるアマテラスまで畏れたのでしょう?
傍で祀ればいいのに、14回も引っ越させることになっても、何故アマテラスを遠ざけたのでしょうか?

結果的に大国主の魂が祀られた奈良の地より、はるかに遠い伊勢の地にアマテラスは祀られてます。一体何故?
いろいろ調べたのですが不明、全く分かりませんでした。
仕方がない。本件は宿題として、後で考えることにしましょう。

番外編その2:アメノヒボコ

古事記の中巻ラストに、番外編として天之日矛(アメノヒボコ)神話が語られてます。
中巻ラストは、第15代 応神天皇(おうじんてんのう)が語られてます。その応神天皇の項に、アメノヒボコが記載されてます。
以降はアメノヒボコに関して、ダイジェストで紹介します。

その昔、新羅の皇子アメノヒボコがやってきました。
聞くところによると、ある沼の辺で賤しい女が寝てました。そこに日の光が虹のように輝いて、ホトを射しました。
それを賤しい男が不思議に思って見ていると、女は寝てた時に孕み、赤玉(原文まま)を生みました。それを見ていた賤しい男は、賤しい女に言いました。

「その玉、ちょうだい」
「いいですよ」

と言うわけで、男はその玉を腰に隠し持ってました。
男は農夫でした。ある時、田んぼで働くみんなの飲食物を牛に背負わせて、山谷を運んでました。
その時偶然、新羅の皇子アメノヒボコと出逢いました。アメノヒボコは言います。

「お前はどうして、飲食物を牛に背負わせて山谷に入るのだ?
さては、この牛を殺して食べようとしているのであろう」

と、いちゃもんをつけて、牢屋に入れようとしました。

「ダンナ、それは誤解ってもんでさあ。
あっしはただ、田んぼで働いてる人たちの食料を運んでるだけなんで…」
「信じられんな」
「ダンナ、これで勘弁してくだせえ」

農夫は、腰に隠し持ってた赤玉を差し出します。

「うむ、今日はこのくらいで勘弁してやろう」

アメノヒボコは悪代官のように赤玉を農夫から奪い、床に置きました。すると赤玉は、麗しい乙女に変身したので妻としました。
その乙女は、いつも様々な珍味を料理して夫に食べさせました。そのうちアメノヒボコは、妻が自分に尽くすのは当たり前だと思うようになりました。心が奢ってしまったわけですね。次第にアメノヒボコは、妻を罵るようになりました。

「なんだこの料理は、マズイ!」
「昨日は何処に行ってた?」
「オレが、どれだけ苦労してるのが分ってるのか!」

当然、以下のようになりました。

「実家に帰らせて頂きます」

乙女の実家は、大阪の難波でした。難波の阿加流比賣(アカルヒメ)だったのです。
アメノヒボコは妻を追ってきますが、「渡りの神」に阻まれました。
仕方なく戻って、但馬国(たじまのくに、原文:多遲摩國)に着き、そこに留まりました。

そこで前津見(マエツミ)という現地妻を娶り、以降はその子孫の系譜が語られます。
また、アメノヒボコが持って来たものは(原文:天之日矛持渡來物者)、 玉津宝(たまつたから)といい、

2つの珠
振浪比礼(なみふるひれ)
切浪比礼(なみきるひれ)
振風比礼(かぜふるひれ)
切風比礼(かぜきるひれ)
奧津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)

の8種と書かれてます。
比礼(ひれ)とは古代に女子が首にかけ,左右に垂らして用いた一条の布のこと。
(コトバンクより)
鏡は説明不要ですね。銅鏡のことです。

注目すべきは「2つの珠」。そもそも玉津宝(=玉の宝)と書かれてるのですから、最重要アイテムです。
アメノヒボコは新羅の皇子でしたね。朝鮮半島の国、新羅から「珠」を持ってきました。
以前「玉」に唾を付け、無理やり相手にプレゼントした神様がいましたね。

そう、山幸彦です。
このように「玉/珠のやり取り」は、朝鮮半島の国との交流を現わしてるんです。ここから山幸彦が行った海底宮殿は、弁韓だと考えました。
余談ですが出雲神話で、天津国玉(アマツクニタマ)という神様が登場しましたね。返し矢で殺された、天若日子(アメノワカヒコ)の親でした。
「天つ国の玉」。アメノワカヒコの祖先も、弁韓からの帰化人だったのかもしれません。

ところで稗田阿礼は、一体何のためにこんな神話を創作したんだ?
天之日矛(アメノヒボコ)。アメノ〇〇とか、アマノ〇〇と言った神様は、高天原の神様でしたね。

稗田阿礼は、アメノヒボコを高天原の神様と同等に扱って創作してます。
ちなみに「高天原 = 朝鮮半島」と言うわけではありません。もしそうなら、山幸彦は海底宮殿ではなく、高天原に行ったはず。わざわざ海底宮殿を創作する必要はありません。

そもそも「高天原 = 朝鮮半島」だったら、稗田阿礼は「アメノヒボコは、高天原から降臨してきた」と書いたはずです。「賤しい女が孕んだ赤玉」を、高天原の神様が娶るわけがない。

それでは何故、稗田阿礼はアメノヒボコを高天原の神様と同等に扱ったのか?
さらにアメノヒボコが書かれてるのは、前述の通り第15代 応神天皇の項です。アメノヒボコ神話は、

「その昔、新羅の皇子アメノヒボコがやってきました」

という一文で始まりました。原文は、

「又昔有新羅國主之子名謂天之日矛是人參渡來也」

ここにも何か秘密があります。
何故、応神天皇の項にアメノヒボコの昔話が語られているのか?
考えるには材料不足です。そこで日本書紀を見てみましょう。
日本書記には、

「第11代 垂仁天皇の時代に、アメノヒボコがやって来た」

と書かれてます。ウィキペディアを基に簡単に見てみると、

アメノヒボコは、はじめ播磨国に停泊していた。これに対し垂仁天皇は、大友主(三輪氏の祖)と長尾市(倭氏の祖)を派遣して、アメノヒボコを問いただした。その時アメノヒボコは、

「自分は新羅国王の子である。日本に聖皇がいると聞いたので、新羅を弟の知古(ちこ)に任せて、自分は日本への帰属を願ってやって来た」

と言い、8つの宝を献上した。
(この8つの宝は、古事記と微妙に異なりますが省略)

垂仁天皇は播磨国にアメノヒボコの居住を許したが、ヒボコは、

「諸国を廻って、適地を探したい」

と願ったので、これも許可した。アメノヒボコは諸国を巡り、但馬国に居住した。

続いて、播磨国風土記も見ておきましょう。
播磨国風土記、播磨の地方公務員が作成した郷土史です。成立時期は713~715年。日本書紀が完成する前ですね。それによると、

アメノヒボコは宇頭川(揖保川)にやって来た。そこで葦原志許乎(=オオクニヌシ)に、

「どこか、私の住むところは無いか?」

と尋ねたところ、オオクニヌシは、

「お前が住むところは、あそこだよ」

と、海を指した。するとヒボコは、剣で海水をかき混ぜて勢いを見せた。ヒボコの勢いに危機を感じたオオクニヌシは、先に領地を確保しようと、慌てて川を遡って行った。その時、丘の上で食事をしたが米粒を落としたため、粒丘(いいぼおか)と呼ばれるようになった。

また、オオクニヌシとアメノヒボコは、山からそれぞれ3本の葛(くず)を投げた。オオクニヌシの1本は宍粟郡(しそうぐん)に落ち、残り2本は但馬の気多郡(けたぐん)と養父郡(やぶぐん)に落ちた。ヒボコの葛は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石(いずし)に住むことになった。

もう一つ、播磨国風土記にはオオクニヌシとスクナビコナの逸話もあります。
スクナビコナ。オオクニヌシと国造りした小人の神様でしたね。播磨国風土記には「小比古尼命」と書かれてます。

オオクニヌシとスクナビコナは言い争いになって、

「粘土を担いで行くのと糞を我慢して行くのと、どちらが先に行けるか」

という話になった。オオクニヌシは糞を我慢して行き、スクナビコナは粘土を担いで行った。数日後、オオクニヌシは、

「もう我慢できない」

と、糞をした。スクナビコナも、

「疲れた」

と粘土(ハニ)を岡に放り出した。このため聖岡(はにおか)と呼ばれるようになった。また、オオクニヌシが糞をした時に、笹が弾き上げて服についてしまった。このため波自賀(はじか)と呼ばれるようになったと言う。

このように播磨国風土記には、地名にまつわる話が数多く出てきます。そこで地名を整理してみましょう。
まず但馬国と播磨国、それぞれ現在の兵庫県北部と南部を現わしてます。そして、

但馬国にある地名 :気多郡、養父郡、出石
播磨国にある地名 :宇頭川(揖保川)、粒丘(損保郡)、宍粟郡、聖岡(神埼郡)、波自賀(神埼郡)

お分かりでしょうか?
但馬国の出石だけ、アメノヒボコが占めています。他の地名、特に播磨国にある地名は、全てオオクニヌシが占めました。

材料は揃いました。それでは考察に入りましょう。