欠史八代

第2代綏靖天皇から第9代開化天皇までの8人の天皇は、実在したかどうか分からないとされ、「欠史八代(けっしはちだい)」と呼ばれてます。名前だけでも紹介しますと、

第2代 綏靖天皇(すいぜいてんのう)
第3代 安寧天皇(あんねいてんのう)
第4代 懿徳天皇(いとくてんのう)
第5代 孝昭天皇(こうしょうてんのう)
第6代 孝安天皇(こうあんてんのう)
第7代 孝霊天皇(こうれいてんのう)
第8代 孝元天皇(こうげんてんのう)
第9代 開化天皇(かいかてんのう)

このうち、第7代 孝霊天皇(こうれいてんのう)に、興味深い記述があります。
孝霊天皇の息子に、大吉備津日子命(オオキビツヒコノミコト)と若建吉備津日子命(ワカタケキビツヒコノミコト)という、異母兄弟が出てきます。

この2人は、針間氷河(はりまひかわ)の前に居を構え、忌瓮(いみべ:神に供えるための忌み清めた容器)を据え、針間を拠点として吉備の国を平定しました。
こうしてオオキビツヒコノミコトは、吉備の上道(かみつみち)の臣の祖となりました。
ワカタケキビツヒコノミコトは、吉備の下道(しもつみち)の臣、笠(かさ)の臣の祖となりました。

針間(はりま)、播磨の当て字です。
要するに、播磨国(兵庫県)を拠点として、吉備国(岡山県)まで制圧したということ。
播磨国/吉備国。共に弥生時代、出雲国でしたね。大和王権は、ここから出雲族を駆逐したんです。
これが桃太郎のベースとなりました。桃太郎が退治した鬼とは何か、分かりますね。
歴史は勝者が作ります。

それからもう一つ。
孝霊天皇には、夜麻登登母母曽毘売命(ヤマトトモモソビメノミコト)という、娘がいました。吉備国を平定した、オオキビツヒコノミコトのお姉さんです。
夜麻登登母母曽毘売命、音仮名ですね。「大和と桃の祖の姫」ですって!
このお姫様、日本書紀には「倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)」と書かれてます。

夜麻登登母母曽毘売命は、大物主神(三輪山の神)との神婚譚や箸墓古墳(奈良県桜井市)伝承で知られる、巫女的な女性である。
(ウィキペディアより)。

またまた出ましたオオモノヌシ!
但し、古事記には記載されてません。以降は日本書紀を参照します。
日本書紀によると倭迹迹日百襲姫命、略して百襲姫(モモソヒメ)は、第10代 崇神天皇(すじんてんのう)に仕えた巫女のようです。第7代 孝霊天皇の娘が何故、第10代 崇神天皇に仕えることができたのか?
崇神天皇は、(後述しますが)実在した可能性が高い天皇です。この辺は、「欠史八代」と関係がありそうですね。さらに、

古事記 :夜麻登登母母曽毘売命
日本書紀 :倭迹迹日百襲姫命

と、異なる表記が成されてます。お気づきでしょうか?

夜麻登 :倭
母母 :百
:襲

それぞれ、大和/桃/祖と解釈できます。
これまで私は、日本書紀をdisってばかりでしたが、人代記(=天皇記)に入ると舎人親王も黙っちゃいない。
モモソヒメは、三輪山の神様オオモノヌシの嫁になりました。が、オオモノヌシは夜にしか現れません。昼には姿を現さない、愛人のような存在でした。

「あなたは昼は見えないので、お顔を見る事ができません。お願いです、明日の朝、あなたのお顔を見せてください」
「分かった。私は明日の朝、そなたの櫛笥(くしげ:櫛を入れる箱)に入っているが、驚かないでほしい」

翌朝、モモソヒメが櫛笥を見ると、美しい小さな蛇がいました。
当然、モモソヒメは驚きます。オオモノヌシは恥ずかしく思い、御諸山(三輪山)に登ってしまいました。
モモソヒメは後悔して、腰を落としました。その時、箸がホトに刺さって死んでしまいました。

人々は、モモソヒメを大市(おおち:奈良県桜井市北部)に葬りました。これが「箸墓(はしはか)古墳」。
昼は人が墓を作り、夜は神が作ったと伝えられます。

箸墓古墳
このように、モモソヒメとオオモノヌシの物語は神話なのですが、何故か箸墓古墳は実在します。しかも、日本に箸が入ってきたのは7世紀だと言うのに、誰が言ったか箸墓古墳。古事記には、ホトに機織具が刺さって死んだ神様がいましたね。

「ホトに何かが刺さって死ぬ」

おそらく当時の思想が反映されてます。そして箸墓古墳は、日本書紀に書かれた「神話」に基づいて名付けられたなんて素適!
古事記より日本書紀の方が正史なのだと、「7世紀以降に箸墓古墳と名付けた人」は謳ってます。まあ、箸墓古墳に関する記述は、古事記には存在しないから、仕方がない話ですが。

それで箸墓古墳の築造時期は、3世紀末から4世紀初頭。最古級の前方後円墳です。墓には大坂山(奈良県香芝市西部の丘陵)の石が、築造のため運ばれたらしい。しかもこの古墳から、岡山市付近から運ばれた、特殊器台や特殊壺が出土しています。

2018年4月、奈良県立橿原考古学研究所が、前方部出土の壺形土器と壺形埴輪26点、後円部頂上から出土した葬送儀礼用の土器の破片54点を調査した結果、前方部の土器は地元の土であるのに対し、後円部は吉備地方の土の特徴と酷似していることが分かった。

このことから吉備地方で製造された完成品を後円部に並べたこと、吉備地方の勢力が大きな力を持っており、箸墓古墳の造営に重要な役割を果たしたことが推測される。
(ウィキペディアより)

どうやら箸墓古墳は、吉備国と関係のある(吉備国を平定した?)巫女の墓のようですね。そして、

前方部の土器は地元の土
後円部の土器は吉備地方の土

で製作された。
つまり前方後円墳は前方部と後円部、それぞれ異なる意味を持っていたことが分かります。
あくまでも個人の感想ですが、

方墳は地元の権力者の墓
円墳は他の地からやってきた権力者の墓

このような意味を持っているのかもしれません。
ところで、箸墓古墳が存在する三輪山の北西にある、古墳時代初期の遺跡を纏向遺跡(まきむくいせき)と呼んでます。大型掘立柱建物跡が発掘されたり、桃のタネ(!)が約2,000個が見つかったり、尾張、北陸、吉備、四国、山陰など、全国各地で造られた土器が発掘されたりする、非常に貴重な遺跡。
どうやら3世紀後半~4世紀前半、ここが大和王権が政を行う場所(=中央集権の場)だったようです。

ちなみに、発見された桃の種を放射性炭素年代測定(C14年代測定法)したところ、2世紀前半~3世紀前半だったという結果が出たようです(奈良県桜井市観光協会HPより)。この結果が出た時、箸墓古墳は卑弥呼の墓だと、マスコミが騒いだことがありました。

しかし年代については、C14年代測定法によるもので、100年以上古く推定されている可能性がある。(ウィキペディアより)

C14と言うのは「炭素14」のことで、放射測定年代の1つです。宇宙線が大気中の窒素に衝突して生成される放射性同位体が半減するのが5730年であることを基準として測定されてますが、誤差が大きい。
しかしながら2020年8月、C14年代測定の基準(ものさし)となる、北半球のデータが7年ぶりに更新されました(IntCal20)。それに基づくと、誤差がかなり修正される。

これまではIntCal13という、2013年に公表された「ものさし」に基づいて測定されてました。それによって纏向の桃の種は、西暦135年~230年のものと推定されたわけ。
ところが2020年のIntCal20に基づくと、日本の1世紀~3世紀の遺跡を見直さなければならないらしい(国立歴史民俗博物館HPより)。

そりゃそうだ。同HPによると、IntCal20には初めて日本産樹木年輪のデータが採用されたのだから。これまでは、外国産樹木年輪のデータに基づいて、(纏向遺跡の)桃の種が測定されてたんですねえ。誤差があるのは当たり前の話。

どうやら纏向遺跡は、早くて3世紀後半の遺跡のようです。個人的には、4世紀前半の遺跡と考えてます。理由は、箸墓古墳そのもの。

This is 前方後円墳!
と言わんばかりに、箸墓古墳はきれいに形が整った前方後円墳です。ホケノ山古墳や石塚古墳など、他の纏向古墳群は面積が小さいし、まともな円(墳)も描けてないし、前方部も貧相。
これは、箸墓古墳築造において、測量技術の進化や、リソース(人的工数)が桁違いに増えたことを表してます。そんな箸墓古墳が、(他の貧相な纏向古墳群と比較して)3世紀前半に築造された訳がない。箸墓古墳と、その他の纏向古墳群の築造時期には、数十年のギャップがあったはず。

要するに、纏向古墳群は3世紀後半、箸墓古墳は4世紀前半の遺跡と考えます。そうでなければ、あのようなきれいな前方後円墳は造れない。(もしくは、優れた測量技術を持った異民族が、纏向に入ってきた可能性も考えられます)

どうやら箸墓古墳築造を、3世紀前半まで繰り上げたい研究者が存在するようです。

第10代 崇神天皇

崇神天皇(すじんてんのう)は、実在が確かな最初の天皇と言われています。日本書紀によれば、人民の戸口調査を行って調役(税金)を課したらしい。
古事記には、男性には弓端調(ゆはずのみつき:動物の肉や皮などの狩猟物)を、女性には手末調(たなすえのみつき:絹・布などの手工業品)を貢がせたと書かれてます。

税金を課すとは、たしかにリアリティがある。物語では「税金」なんて創作することはできない。それでは崇神天皇は、いつ頃の天皇だったのでしょう?
崇神天皇の墓は、奈良県天理市柳本町にある、行燈山古墳(あんどんやまこふん)という前方後円墳が比定されてます。築造時期は、4世紀前半(古墳時代前期)。

さらに古事記には、「戊寅年十二月に崩御」と書かれてます。
調べてみると、戊寅(つちのえとら)の年とは、西暦年を60で割って18余る年のこと。西暦258年、318年あたりが相当します。258年は、オオクニヌシの国譲りが行われた頃。仮に崇神天皇が、258年に崩御されたとすると、国譲りは崇神天皇に対して行われたことになりますね。が、後述する理由で、それは考えられない。
318年崩御ということになります。行燈山古墳の築造時期とも重なりますね。

崇神天皇は、3世紀後半から4世紀前半の天皇だったことになります。崇神天皇が政を行った場所が、今で言う纏向遺跡だった可能性が高い。

コラム:年
初代神武天皇は、137歳で崩御されたと書かれています。崇神天皇は168歳で崩御されたんだってさ。

どう考えてもウソ!
記紀に書かれてある年から逆算すると、初代神武天皇が即位されたのは、紀元前660年だったことになります。ここから実年齢は、「春秋」という年の数え方から、2で割ると考える研究者もいるようです。

つまり、神武天皇は68.5歳で崩御、崇神天皇は84歳で崩御されました。
これでも長すぎます。当時の平均寿命は50~60歳だったと、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は語ってましたね。
記紀に書かれている「年」は、鵜呑みにするわけにはいかない。

しかしながら、干支(えと)は信用できる。崇神天皇は、戊寅年十二月に崩御されましたね。干支とは、60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられた、中国大陸に存在した数え方です。
壬申の乱。壬申とは、西暦年を60で割って12余る年のこと。西暦672年(=660+12)に、壬申の乱が起こってます。古事記誕生のトリガー(きっかけ)となったのは壬申の乱であると、イントロダクションに書きましたね。

このように、「中国大陸で基準とされていた干支」は信用できると考えます。

ところで本書は、オオクニヌシの国譲りの真実を探ることを目的としています。従って古事記に関して、以降は国譲りに関する部分だけを調べることにします。
余分な情報は破棄することも、大事なデータ収集。

崇神天皇の治世、疫病が起こり、多くの人たちが亡くなりました。結核や天然痘など、空気感染するウイルスが蔓延したのでしょう。個人的には異文化どうしが接触して、免疫のない近畿の人々が流行病にかかったと考えてますが。
崇神天皇は、たくさんの民が亡くなるのを憂い、神床(かんどこ)に入りました。神床とは、神託を仰ぐための寝床のこと。
崇神天皇が眠りに入ると、一人の神様が現れました。

「お主、悩んでおるな?」
「あなた様は?」
「わしは三輪山の神様、大物主(オオモノヌシ)じゃ」
「オオモノヌシ様!
それで、今度は誰に夜這いをかけたのですか?」
「どうして分かった?
さてはお主、予知能力者か!」
「予知能力が無くても分かるんです。
あなたの夜這い話は、ご先祖様からさんざん聞かされてますから」

オオモノヌシは話します。

「実を言うと活玉依毘売(イクタマヨリビメ)という、それはそれは美しい姫がおったのじゃ。
それでわしは、毎晩のように夜這いをかけた。
程なくイクタマヨリビメは、わしの子供を身ごもった。
それをイクタマヨリビメの両親が不審に思ったのじゃ」
「どういうことです?」
「イクタマヨリビメは箱入り娘。
寝室にカギをかけて、男が寄り付けぬよう、厳重に管理されておったのじゃ。
カギなど、わしには関係ないのじゃが…」
「何と、密室殺人ならぬ密室妊娠とは!
ご両親も、さぞかし心配されたことでしょうね」
「そこで、両親はイクタマヨリビメを問い詰めたのじゃ。

『お前は夫もいないのに、どうやって身ごもったのだ?
父さんは、そんなふしだらな娘に育てた覚えはない!』
『まあまあ、お父さん、とにかく娘の話を聞いてみましょうよ。
イクタマヨリビメ、正直に話してみなさい。
カギを開けて男を呼び込んだの?』
『そんなことしてないわ、お母さん』
『だったら、どうして身ごもったの?』
『それは…』」

「あのう、話はまだ続きますか?
てか、話を盛ってるでしょ」
「ここからが、いいところじゃ。
イクタマヨリビメは、こう答えたのじゃ。

『お名前は存じませんが、とても麗しい男性が毎晩やって来て、
ご一緒したら自然と懐妊しましたのよ』

イクタマヨリビメは、わしを『とても麗しい男性』と言ったのじゃ。
どうじゃ、身ごもっても仕方がないじゃろう?」

「いや、その理屈はおかしい」

「そこで両親は一計を案じ、イクタマヨリビメにこう言ったのじゃ。
『糸巻きの糸の端に針を付け、その不審者の裾に刺しなさい』
わしは不審者ではないわ!」
「どう考えても不審者です。本当にありがとうございました」
「話は、まだ終わっておらん。
翌朝、両親が見ると、糸はカギ穴を通って三輪山まで続いておった。

何たる不覚!
糸の付いた針を裾に付けられてたとは気づかなんだ」
「そうですか、もう何も言えません…」

「その時、糸巻きに残った糸は、三巻きだけだったそうじゃ。
それで、わしが祀られておる山は三輪山と呼ばれるのじゃ」
「へえ~、でもそんなトリビア、どうでもいいです。
ほんと、何しに神床に現れたんですか?」
「それでは本題に入ろう。お主、悩んでおるな?」
「それはもう伺いました」
「今の流行病は、わしの心が乱れておるせいなのじゃ」
「そこまで自由奔放な神生活でも、心が乱れるのですか?」
「うむ!
落ち着かないというか、気ぜわしいというか…
そこでじゃ、意富多多泥古(オオタタネコ)を探して、わしを祀らせるのじゃ」
「オオタタネコ?」

「イクタマヨリビメが生んだわしの子が、櫛御方命(クシミカタノミコト)。
クシミカタノミコトの子が、飯肩巣見命(イイカタスミノミコト)。
イイカタスミノミコトの子が、建甕槌命(タケミカツチノミコト)。
タケミカツチノミコトの子が、オオタタネコなのじゃ。
わしの子孫、オオタタネコに祀られれば、わしの心の乱れも鎮められる(原文:神氣不起。神の気も起きなくなる)。
流行病も鎮めることができ、民も栄えるぞ!」

神床から目覚めた崇神天皇は、
「疲れた…」
と言ったかどうかは定かでありません。が、本当にお疲れになられたと、心中お察し致します。

崇神天皇は早速、オオタタネコを四方八方、探させます。果たして見つかりました、河内(かわち)の美努(みの)村で。(大阪府八尾市あたり)
直ちにオオタタネコを神主とし、御諸山(みもろやま)に「大三輪(おおみわ、原文:意富美和) 」の大神を祀りました。
すると流行病は収束。国は安定し、人民は栄えました。
でめたし、でめたし!

ところで、お気づきでしょうか。祀られたのは「大物主」ではなく、「大三輪の大神」です。
大神と大物主、同じ神様です。「大神」と書いて「おおみわ」と読みます。三輪山をご神体として祀る神社が「大神神社(おおみわじんじゃ)」。祭神が大物主。
何故、大神/大物主と「呼称」が使い分けられているのか?
後で、この重要性に気づくことになります。

コラム:意富多多泥古(オオタタネコ)
原文では、オオモノヌシは、

「オオタタネコに、わしを祀らせるがいい。そうすれば国も安らかになる」

としか言ってません。
崇神天皇はオオタタネコに会った時、出自を確かめてます。
オオタタネコが「自分の祖先は、オオモノヌシです」と、自らの出自を語ってます。
前述のオオモノヌシと崇神天皇の会話は、もちろん私の加筆。日本書紀には、「大田田根子」と書かれてます。
はじめは三輪山を祀る巫女と思ったのですが、どうやら違うみたい。
オオタタネコが崇神天皇に自らの出自を語った時、古事記にはこう書かれてます。

「僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毘賣生子名櫛御方命之子飯肩巢見命之子建甕槌命之子僕意富多多泥古白」

(私はオオモノヌシが陶津耳命(スエツミミノミコト)の娘、イクタマヨリビメを娶って生まれた櫛御方命の子、飯肩巢見命の子、建甕槌命の子。私がオオタタネコですと言いました)

大田田根子、どうやら男性のようですね。
そう言えば遣隋使、アホの小野妹子も男性でした。

 

建波邇安王の反乱

この後、崇神天皇は大毘古命(おおびこのみこと:第8代 孝元天皇の第1皇子)を越の道(北陸地方)に派遣します。またその息子、建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)を東方十二道(東方の12国。倉野先生によると、伊勢/尾張/参河/遠江/駿河/甲斐/伊豆/相模/武蔵/総/常陸/陸奥)に派遣、服従しない者たちを平定します。以降はダイジェストで紹介。

大毘古命は、越の国で女の子の歌を聞き、崇神天皇の危機を察知します。どうやら、崇神天皇の兄、山代國(山城国)の建波邇安王(たてはにやすのみこ)が反乱を起こそうとしているらしい。
そこで大毘古命は、日子國夫玖命(ひこくにふくのみこと)を副官として、建波邇安王を撃ち取りました。要するに、

「崇神天皇の時代、北陸地方をはじめとして、東方の12国(中部/関東/東北)まで支配下に収め、さらには皇位継承争いまで起こった」

ってこと。

コラム:建波邇安王の反乱
本項は省略するつもりでした。大国主の国譲りとは、何の関係も無いから。
しかしながら、気になる言葉が記載されてました。

「この後、崇神天皇は大毘古命を越の道に派遣します。またその息子、建沼河別命を東方十二道に派遣、服従しない者たちを平定します」

と書きましたね。原文は、

又此之御世 大毘古命者遣高志道 其子建沼河別命者 遣東方十二道而
令和平其麻都漏波奴(自麻下五字以音)人等

またこの御世に、大毘古命を高志道に派遣し、その子建沼河別命を東方十二道に派遣させました。その麻都漏波奴(まつろわぬ:この5文字は音仮名です)人々を、やわさしめました。

和平(やわ)さ令(し)む、これを私は「平定します」と意訳しました。
令和平(やわさしむ)。やわさしめられた(=平定された)のは、まつろわぬ(服従しない)、東方十二道の人々です。

「令和」という元号は万葉集から引用されたそうですが、名付けた人は、日本最古の文章に「服従しない人々を平定した(令和平)」と書かれていたことを知っていたのでしょうか?
知ってたとしたら、確信犯ですね。