エウカシとオトウカシ

宇陀に兄宇迦斯(エウカシ)、弟宇迦斯(オトウカシ)という、2人の兄弟がいました。
八咫烏が2人の兄弟に尋ねます。

「お前たち、イワレヒコ様にお仕え申すか?」
「何だ、その『上から目線』。帰れ!」

エウカシは鏑矢(かぶらや)を射て、八咫烏を追い返しました。
ちなみに、鏑矢の落ちた地を訶夫羅前(かぶらさき:場所不明)と言うらしい。
そしてエウカシは戦闘態勢を整えるため、軍勢を整えようとしましたが人が集まらない。

そこでエウカシは、宮殿を作ってイワレヒコ軍団を迎えることにしました。
その宮殿には、人が入ると天井が落ちてくるという、ドリフのコント並みの仕掛けが施されてました。
弟のオトウカシは、イワレヒコに進言します。

「兄は宮殿に天井が落ちる仕掛けを施して、あなた様を殺そうとしています」

そこで大伴連(オオトモノムラジ)の祖、道臣命(ミチノオミノミコト)、久米直(クメノアタイ)の祖、大久米命(オオクメノミコト)がエウカシに迫ります。
ここで初めて、イワレヒコ軍団の正体が明らかになります。ミチノオミとオオクメという軍団を引き連れてたのですね。

「お前が作った宮殿なのだから、お前が先に入ってお仕えしようとする証拠を示せ!」

ミチノオミとオオクメは、刀に手をかけエウカシを追い詰めます。
が、エウカシはなかなか宮殿に入ろうとしない…
痺れを切らせた、オオクメ軍団の1人が手を上げます。

「そんなに入りたくないんなら、オレが入ってやるよ!」
「いや、オレが先に入る!」
「オレも、オレも!」

次々とオオクメ軍団が手を上げました。
仕方なく、エウカシも手を上げます。

「そっ、それでは私が先に入りましょう」

どうぞどうぞどうぞ!
お約束通りエウカシは、天井の下敷きになって死んでしまいました。
エウカシを引き摺り出して斬り散らします。このため、この地は宇陀の血原(うだのちはら)と言うらしい。
調べてみましたが、「宇陀の血原」は何処なのか特定できませんでした。奈良時代の人は、

「ああ、あそこか」

と、分かったかもしれませんが…
オトウカシは宴会の席を設けます。
これまで闘いの日々が続きました。イワレヒコ軍団は盛り上がります。

「団長、一杯どうぞ!」
「団長って言うな。自分たちの時代、まだ拳銃は無いんだぞ」
「それではデカ長、乾杯!」
「だから話を古事記に戻せってば!」

イワレヒコ軍団は歌い出します。

宇陀の山に鷸(しぎ)を獲る罠を張って待ってたら、クジラが捕まってやんの!
古妻(こなみ)が肴をねだったら、実の無いところをくれてやれ!
後妻(うわなり)が肴をねだったら、実の多いところを与えてやれ!
はぁはぁ、酔っ払っちまったけど今宵は飲むぞ!
嘲ってやる、ザマァ!

あまりお行儀のいい歌ではないですけど、よほど嬉しかったんでしょう。
とにかくこれでオトウカシは、宇陀の水取(宮中の水の管理)の祖となりました。

要するに、九州からやって来た集団に、一部の人は畏れ奉り、一部の人は抵抗したってことです。
イワレヒコ軍団は、さらに進軍します。忍坂(おさか)の大室(おおむろ)に到着した時、またまた尻尾の生えた、土雲(つちぐも)というたくさんの集団が、村(原文:室)で待ち受けてました。

考察:
尻尾が生えている。はっきり言って見下した表現ですね。関係ないとは思いますが、「土雲」と「出雲」、漢字の形が似てます。「土」から4本の「草」が生えたら「出」という文字になるなんて草!

ところで、イワレヒコ軍団は熊野の人たちに助けられたと考察しました。もちろん、こんなことは書けない。昔から紀伊半島に住んでいた人たちを「尻尾が生えている」と見下しているのだから。
尻尾の生えた熊野の人たちに助けられたなんて、神武東征にとって「恥」!
稗田阿礼が、タカクラジという国つ神を創作したのも当然の話です。

イワレヒコは宴会を開きます。そして土雲1人1人に、部下を料理人(原文:膳夫)としてあてがいます。

「オレの歌を聞いたら、一気に殺れ!」

やがてイワレヒコは歌います。

「忍んで来た坂に集落があった。1人1人にあてがったオオクメ軍団。お前たち、頭椎(くぶつち)、石椎(いしつち)の刀で、撃てい!」

土雲たちは、一気に殲滅されます。
イワレヒコ軍団は、「忍坂の大室」に存在した集落を襲撃したんです。これは仕方のないこと。

補給線の無いゲリラ部隊は、どうしても集落を襲う必要があります。補給線とは、最前線で戦う部隊に武器や食料を届ける、後方支援のこと。
それが無いイワレヒコ軍団は、集落を襲って食料を調達する必要があったんです。
このように、相手に酒を飲ませて油断させ、一気に殲滅するのは常套手段。世界史を見れば、枚挙に暇がありません。

「それじゃ、八塩折の酒を飲ませて退治した八岐大蛇(ヤマタノオロチ)も、斐伊川の象徴ではなく、スサノオが滅ぼした一族の象徴ではないのか?」

こう指摘されたのは、他ならぬ水木先生。先生は、「オロチを奉じるタタラ族」が滅びる姿を想像して描かれています。
しかしながらこれではスサノオとオロチ、特にオロチを「デフォルメ」した説明が付かない。スサノオとオロチは、文字通りゴジラとキングギドラ。とても大きな「怪物」として書かれてます。「土雲」という等身大のスケールではない。
八岐大蛇神話は、やはり「斐伊川の治水」という怪物的スケールの物語と考えます。

イワレヒコ軍団が土雲を殲滅した後、登美毘古(トミヒコ:ナガスネヒコのこと)を撃とうとした時、詠んだ歌がこれ。

「多くのオオクメ軍団が、草木一本たりとも残さず引っこ抜いて、根絶やしにするぞ!」
「多くのオオクメ軍団が、垣下に植えた山椒は辛いと言った。その辛さを忘れるものか。さあ撃つぞ!」
「神風が吹く、伊勢の海に張り付いている細螺(しただみ:貝の一種)のように、這い回って撃とう!」

歩伏前進か?
さらにこんな歌を詠みます。

「兄師木(えしき)を撃ち、弟師木(おとしき)にもてなされた時は、本当に疲れた(原文:擊兄師木弟師木之時御軍暫疲)」
「伊那佐の山の木々をすり抜けて戦ってきて、私は飢えている。鵜飼の友よ、助けてくれ!」

オトウカシに宴会の席を設けてもらったのに、飢えてるんだってさ。
そりゃ次々と集落を襲っても、満足な食料を得る保証は無いからねえ。
これらの歌が、神武東征の本音を表してますね。
それにしても鵜飼の友、ニエモチノコは助けてくれたのでしょうか?
とにかくここで邇芸速日命(ニギハヤヒノミコト)が参上、イワレヒコに言いました。

「天つ神の子が降臨されたと伺い、私も降りて参りました。天津瑞(天つ神の印)を献上し、お遣え申し上げます」

ニギハヤヒノミコト、唐突に現れた神様も、天から降臨したんだってさ。
前にもオオクニヌシの国譲りの時、唐突に現れた天津国玉(アマツクニタマ)という神様がいましたね。8年経っても戻らなかった、天若日子(アメノワカヒコ)の父親です。

それと全く同じパターン!
ニギハヤヒはトミヒコ、すなわちナガスネヒコの妹、登美夜毘売(トミヤビメ)を妻としてました。そして生まれた子が、宇摩志麻遅命(ウマシマジノミコト)。これが物部氏の祖先となります。
何故、ニギハヤヒを稗田阿礼が創作したのか、見え見えですね。
物部氏の祖先、要するに奈良盆地でイワレヒコに服従した人々を謳ったんです。

こうしてイワレヒコは荒ぶる神々を平定、服従しない者を撃ち払い、畝火(うねび:畝傍山)の橿原(かしはら)の宮で天下を治めました(原文:坐畝火之白檮原宮治天下也)。
これが神武東征です。

あれっ、アレが無いじゃん!
記紀に詳しい方は、お気づきでしょう。
そう、アレは古事記には書かれてません。日本書紀に書かれてるんです。

ナガスネヒコとの最終決戦

日本書紀における、ナガスネヒコとの最終決戦を見ておきましょう。

イワレヒコは、再びナガスネヒコと戦いましたが苦戦します。その時、空が暗くなり、冷たい雨が降ってきました。すると突然、鳶(とび)が飛んできて、イワレヒコの弓に止まります。鳶は金色に光り輝き、ナガスネヒコの目を眩ませます。
雷に打たれたのでしょうか?
とにかくこれで、ナガスネヒコを討ち取る時がやってきました。ナガスネヒコは言います。

「私は、天から降臨してきたニギハヤヒに仕えている。妹のトミヤビメをニギハヤヒに差し出し、ウマシマジという子供もいる。
天孫の子が、どうして2人もいるのか?
どうして、お前たちはこの地を奪おうとするのか?
どうしても納得がいかない」

イワレヒコは問います。

「お互い天孫の子と言うのか。それでは証拠を見せ合おうではないか」

ナガスネヒコは、天羽々矢(あめのははや)と歩靫(かちゆき:矢を入れて、背負う器)を見せます。

「…これは、たしかに天孫の証だ。私も持っている」

イワレヒコはナガスネヒコを討ち取ることを諦め、その場を去ります。
後日、ニギハヤヒがイワレヒコの元へ訪れます。

「天孫の子がやって来たと聞いたので、参上しました。
ナガスネヒコは、どうしても戦うことを止めようとしないので、私が殺しました。
我々一族は、あなた様にお仕え申し上げます」

こうしてニギハヤヒは、物部氏の祖先となりました。

無茶苦茶な論理!
九州からやって来たゲリラ軍団と必死に戦った、自分を奉じるナガスネヒコを殺して服従するか!
この部分、古事記を読んだ舎人親王が創作した、完全なフィクションと考えます。
と言うのも、古事記の序文にこんな一節があるから。

飛鳥の清原(きよみはら)の大宮において全国を治められた天武天皇は、皇太子として備えられてましたが、時が来ました。夢の歌の謎を解くと成すべきことが見え、夜の水に打たれて悟られました。

しかしながら、まだその時ではありません。吉野山に入り、脱皮して蝉になるように成長され、人事を得て虎のように東国(伊勢の国)を歩まれました。
天皇の輿(みこし)は山を越え川を渡り、軍隊は雷のように威を振い、三軍は電光のように進みました。
矛を手にして威勢を現わし勇猛な戦士は決起、赤い旗を掲げて武器を光らせ、敵兵は崩壊しました。

そこで牛馬を休ませ、穏やかに都に戻り、旗を巻き武器を収めて歌い舞って都に留まります。
こうして酉年の二月、清原の大宮において天皇に即位されました。

天武天皇。壬申の乱で大海人皇子として大勝利をおさめ、稗田阿礼に歴史書の誦習を命じた天皇でしたね。天武天皇は雷のように威を振るい、電光のように進軍して勝利したと、古事記の序文に書かれてます。

舎人親王はこれをベースとして、ナガスネヒコとの最終決戦を創作したと推測します。

コラム:古事記と日本書紀
この2書を「記紀」と呼びますが、私は別のものと考えてます。質が全然違う。
古事記は712年、元明天皇に「献上」されました。
日本書紀は720年、元正天皇(げんしょうてんのう)に「奏上」されました。
奏上とは天皇に申し上げること。伺いを立てることを意味します。従って、天皇の意思で却下することもできる。
ところが古事記は「献上」されているので、天皇の意思が入り込む余地がない。
古事記を献上された元明天皇は、

「はい、そうですか」

と、すぐに受け取ったでしょうか?

「天岩戸隠れ、これは何を意味してますか?
ヤマタノオロチ退治、これは何ですか?」

元明天皇は「日本の正史」を献上されたのですよ。必ず、古事記の真意を確認したはずです。稗田阿礼と太安万侶は、事細かく説明したはず。
「密奏」という言葉がありましたね。内密に天皇に奏上することでした。
古事記には神話のベールをかけて、真実を隠した部分が数多くあります。それを元明天皇に「密奏」した。
古事記の真実は、「ごく限られた皇族だけ」にしか伝えられなかった。舎人親王には伝わってない。だから古事記と日本書紀に差異が生じた。

古事記の真実を知っている元明天皇に、日本書紀はとても奏上できない。このため舎人親王は、元正天皇(げんしょうてんのう)が即位されるまで待った。元正天皇は715年に即位されます。それでもまだ奏上できない。太上天皇(だいじょうてんのう:譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号)となられた元明天皇に日本書紀を見られたら、何を言われるか分かったもんじゃない。

元明天皇は、721年に崩御されました。古事記から8年後に日本書紀が奏上されたのは、このような裏事情があったためと考えてます。
それでも舎人親王には、リスクがあったと思います。だって日本書紀を奏上した元正天皇は、元明天皇の娘だったのですから。しかしながら、自分の姪っ子である元正天皇には、何とか書紀を奏上できたことでしょう。

もちろん日本書紀には、多くの役人たちが編纂に関わってます。従って、天皇記は古事記より詳細に記録されてます。日本書紀全30巻の内、神代記(神話)は第1巻と第2巻だけ。残りの28巻は、人代記(=天皇記)に費やされてます。内容も役割も、古事記とは異なる。日本書記は、天皇の歴史を詳細に記述した外交文書。
17条の憲法とか大化の改新など、飛鳥時代に何が起こったのか、我々が知ることができるのは日本書紀のおかげ。従って、

「日本書紀の方が日本の正史なのだ。これでいいのだ」

と、認識されてるわけ。
おそらく舎人親王は、役人たちに命じて「帝紀」に書かれていたことを集め、再編集しています。しかしながら「旧辞」は、舎人親王には意味不明。そりゃそうだ。豪族たちが書き残した旧辞に書かれてある事象をかき集めても、当時の役人たちには、訳が分からなかったはずです。だから日本書紀における神代記は、全体の1/15になった。

100 ÷ 15 = 6.6666…

日本書紀の約7%しか書かれていない神代記、古事記では1/3を占めています。
少なくとも神代記は、稗田阿礼が誦習(しょうしゅう)した古事記を基準とすべき。私はこのように考えてます。

コラム:舎人親王
日本書紀を編纂したとされる、舎人親王(とねりしんのう)。壬申の乱に大勝利した、天武天皇の子供です。天武天皇が「日本史」の編纂を目指したのは、はじめに書いた通り。
ここで単純な疑問です。

「天武天皇の息子である舎人親王に、何故『古事記の真実』が伝わってない?」

調べてみると、面白いことが分かりました。
天武天皇は、686年まで在位されました。その後、

(1) 持統(じとう)天皇 :697年まで在位
(2) 文武(もんむ)天皇 :707年まで在位
(3) 元明(げんめい)天皇 :715年まで在位
(4) 元正(げんしょう)天皇 :724年まで在位

と続きます。この内、男性天皇は(2)の文武天皇だけ。その他は全て、女性天皇です。はっきり言って元明天皇/元正天皇は、後の聖武天皇へ繋ぐための女性天皇。そして、

・古事記は(3)の元明天皇に献上された
・日本書記は(4)の元正天皇に奏上された

(3)と(4)、大きな違いがあります。
(3)は天智天皇、すなわち大化の改新に貢献した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の娘。
(4)は天武天皇、すなわち壬申の乱で大勝利を収めた大海人皇子(おおあまのおうじ)の孫娘。
天智天皇と天武天皇、2人とも舒明天皇(じょめいてんのう)の子供とされてます。
ちなみに(1)の持統天皇は、天智天皇の娘であり天武天皇の皇后でもある、複雑な系図を持たれています。

さらに興味深いのが、弘文天皇(こうぶんてんのう)。弘文天皇は、天智天皇の第一皇子です。ウィキペディアによると、

「(弘文天皇は)天智天皇の後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する」

中大兄皇子(天智天皇)の第一皇子を自害させたのが、大海人皇子(天武天皇)。要するに、

弘文天皇 VS 大海人皇子

という皇位継承争い。

これが壬申の乱!
従って天智天皇と天武天皇、それぞれの子孫が仲が悪いのは当然の話。元明天皇から見れば、自分のお兄さんは叔父に追い詰められて自害したことになります。
そして古事記を献上された、元明天皇のお父さんは天智天皇。日本書紀を奏上された、元正天皇のおじいさんは天武天皇という「ねじれ」が生じた。
「ねじれ」と言うのは大げさかもしれません。元明天皇の娘が元正天皇なのですから。
そこには草壁皇子(くさかべのおうじ:天武天皇の子。689年、27歳で崩御)を亡くしている「母子愛」が感じられます。

「あなたのおじいさま、天武天皇に命じられて編纂された、『古事記』という歴史書を献上されました。私の娘、元正天皇。あなたには『古事記の真実』を教えることはできません。古事記には、あなたのお父さま、草壁皇子を殺した、恐ろしい『呪い』が書かれています。
この呪いは、天智天皇の娘である私が引き受けます」
「お母さま、私は8年後、日本書記を奏上されるのです。
私のおじさま、舎人親王が取りまとめた日本書紀の方が、日本の正史になるのです。呪いなんて、書紀にはどこにも書かれてません。
お母さま、どうか本当のことを話してください」

こんな会話があったかどうかは定かで無いですが、何故、古事記と日本書紀に差異が生じたのか?
恐ろしい祝い呪いとは何なのか?
既にお気づきの方も多いと思いますが、後述します。

 

神武天皇の嫁探し

神武天皇が日向にいた時、阿比良比売(アヒラヒメ)という嫁がいて、多芸志美美命(タキシミミノミコト)と岐須美美命(キスミミノミコト)という、2人の子供もいました。
しかしさらに美人を求め、正妻(原文:大后)にしようと考えました。要するに、現地妻を探したわけです。
ある時、オオクメは神武天皇に言います。

「この辺りに『神の子』がいるそうですよ」
「神の子?
何それ、おいしいの?」

オオクメの話は、不思議な神話でした。
三嶋湟咋(ミシマノミゾクイ)の娘、勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)という、それは容姿端麗なお姫様がいました。
セヤダタラヒメに三輪山の神様、大物主(オオモノヌシ)大神が一目惚れしました。

ここで登場、オオモノヌシ!
原文では、ここで初めて「大物主」と書かれます。記紀を読んだ人は、

「ああ、国造りの時、オオクニヌシが御諸山(三輪山)に祀った名前も分からない神様は、オオモノヌシと言うのか」

と、分かる仕掛けになってます。しかしながら古事記だけを読んだ人は、

「あれっ、国造りの時、オオクニヌシが御諸山(三輪山)に祀った名前も分からない神様は、大年神だったんじゃないの?」

と、疑問を抱くはず。この違いは、もちろん日本書紀にあります。日本書紀によると、オオクニヌシは自分の幸魂/奇魂(さきみたま/くしみたま)を三輪山に祀りましたね。

我々は情報過多。日本書紀をはじめとした、後発の続日本紀(しょくにほんぎ)、日本後紀(にほんこうき)など6つの正史があります。これら六国史(りっこくし)を全て読むと、必ず矛盾が生じます。ちなみに六国史は全て、天皇に「奏上」されてます。
私は前述の通り、これら正史のオリジナル、天皇に「献上」された古事記を基準としています。オリジナルを素直に解釈すると、

「オオクニヌシが御諸山(三輪山)に祀った名前も分からない神様は大年神。その子供である大国御魂神(オオクニミタマノカミ:大国主の魂)が、後に大物主と呼ばれるようになった。大物主は、三輪山の山頂に鎮座している」

それでは何故、太安万侶は「大国御魂神/大物主」と、呼称を使い分けたのでしょう?
おそらく以下に示す、大物主の行動が関係しています。

ある夜、オオモノヌシはセヤダタラヒメを川の上流で待ち構えます。当時は川の上に、厠(かわや:トイレ)がありました。このため、「川屋」が厠の語源という説もあります。
セヤダタラヒメが厠にやってきました。原文には、しっかり「大便」と書かれてます。

「今だ!」
オオモノヌシは丹塗矢(にぬりや)に変身して、セヤダタラヒメ目がけて一直線!

スポッ!
矢は見事、セヤダタラヒメのホトに命中します。ビックリしたのはセヤダタラヒメ。大便の途中ですが、思わず立ち上がってしまいました。
ここまで来たら、もう開き直るしかない。

世界よ、これが日本の神々だ!
セヤダタラヒメは、床に矢を持ち帰ります。そこでオオモノヌシは正体を現します。
オオモノヌシ、なかなかのイケメンだったようです。

こうして2人は結ばれ、富登多多良伊須須岐比売命(ホトタタライススキヒメノミコト)という女の子が生まれました。しっかり「ホト」と名付けられてます。名付け親は、絶対オオモノヌシだな。

これを嫌って、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)と改名しました。
そりゃそうだ。ホトタタライススキヒメなんて、キラキラネーム以前の問題。学校で、

「ホトちゃん、ホトちゃん」

と、いじられるに決まってます。
ところで、女性が大便の途中に夜這いをかける神様が「大国御魂神(オオクニミタマノカミ)」だったとしたら、どう思われます?
「大きな国の神様の御魂」が、ホトを目指して一直線!
こんな品の無いこと、書ける訳がありません。ましてや、

「大年神がホトを目指して一直線!」

とは書けない。このため、大物主という神様が(名前を変更して)創作されたと推測します。

コラム:タタラ
(1) 勢夜陀多良比売(セヤダタラヒメ)
(2) 富登多多良伊須須岐比売(ホトタタライススキヒメ)
(3) 比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)

面白いことに気づきました。(1)は(2)と(3)の母親。(2)と(3)は同一人物。
陀多良/多多良と、音仮名表記されてますね。「たたら製鉄」と言うのは、前に説明した通り、古代における製鉄を意味します。
「多多良(たたら)」という音仮名が意味を持っていたとすると、間違いなく「鉄」を意味しています。
銅鐸文化だった近畿地方に、何故「たたら(=鉄)」が入っていたのか?

ガイドブックを思い出してください。出雲地方がいち早く「鉄の時代に入った」と考察しましたね。そして出雲は、近畿地方との交流を持っていたことは、加茂岩倉遺跡から明らかです。
ここから出雲地方が近畿地方に、大きな影響を持っていたことが推測できます。
あくまでも「多多良(たたら)」という音仮名が意味を持っていた前提での話ですが。

「とにかく、そんな『神の子』がいるらしいですよ」
「そりゃまた、不思議な話だなあ」

神武天皇とオオクメは、こんな会話をしながら高佐士野(たかさじの:三輪山の北あたり)に行った時、縁起のいい7人の乙女たちが遊んでました。

「神武天皇、どの子がお好みですか?」
「そうだなあ…
今、前に出た子、あの子がいいな」

その娘こそ、ヒメタタライスケヨリヒメでした。

まさに、運命の出会いでした!
「オオクメ、ちょっとあの子に声を掛けてこーい!」
「え~、女子中学生の告白じゃないんだから、自分で言ってくださいよ」
「ほざきやがれ、わたしは大王だぞ」
「まったく、えらそーに」
「えらいもん!」

しぶしぶオオクメは、イスケヨリヒメに声を掛けます。

「あの~、ちょっと」

イスケヨリヒメは、オオクメの黥(いれずみ)を入れた鋭い目を見て、怪訝に思います。

「どーして、あなたの目は鋭いの?」

何だこの子、天然なのか?
オオクメは答えます。

「それは、あなたをよく見るためですよ」
「どーして、あなたの鼻は大きいの?」
「それは、あなたの香りを確かめるためですよ」
「どーして、あなたの矛は大きいの?」
「それは、あなたを食べちゃうからですよ」

「ちょっと待て、コラァー!
お前がナンパしてどーするんだよ!
それに黙って聞いてりゃ、始めは古事記通りだったけど、赤ずきんちゃん入れて、最後は下ネタに走りやがって!」
「だから自分で声を掛けてくださいって言ったじゃないですか。
それより彼女、OKだそうですよ。大王にお仕えしますって」
「えっ、ほんと!」
「あ、機嫌治った」

こうして神武天皇はイスケヨリヒメの家に行き、一夜を共にしました。
以降はダイジェストで紹介。
この後、2人には日子八井命(ヒコヤイノミコト)、神八井耳命(カムヤイミミノミコト)、神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)という、これまた縁起のいい3人の子供が生まれます。

神武天皇の崩御後、日向に残した息子タキシミミノミコトがやってきて、イスケヨリヒメを娶ります。そして、イスケヨリヒメの息子3人を殺そうと企てます。
イスケヨリヒメは歌を詠んで、息子たちに危険を知らせます。
結果、タキシミミノミコトは次男のカムヤイミミノミコトに殺されます。カムヤイミミノミコトが第2代、綏靖天皇(すいぜいてんのう)となります。