トヨタマヒメ

ある日、トヨタマヒメは海中宮殿から地上に出てきました。
山幸彦は、トヨタマヒメに寄り添います。

「どうした?」
「産まれそうなの」
「えっ?」
「あなたの子よ。
天つ神の御子を海原には産めないわ」
「大変だ、すぐに産屋を作らなくちゃ!」

山幸彦は、急いで海辺に産屋を作ります。
ところが産屋が完成しないうちに、トヨタマヒメは産気づきました。

「私は海の女。本当の姿になって、あなたの子を産みます。
お願いですから、あなたの子を産む私の姿を見ないでください」

そこまでお願いされたなら、見ない訳にはいかない。
お約束通り、山幸彦は産屋を覗きます。
そこに見たのは、大きな鮫が体をくねらせて子供を産むトヨタマヒメの姿でした。
このように、

「見るなよ、絶対に見るなよ!」

と言われて見てしまうのは、神話の時代から続く日本人の悲しい血なんです。
「鶴の恩返し」もそうでしたね。
この悲しい血は現在では、ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんに色濃く表れてました。
(竜兵さんのご冥福を心よりお祈り申し上げます)

それから、もう一つ。
体をくねらせて子供を産むってこれ、鮫じゃなくクジラ(イルカ)ですよ。
奈良時代、鮫とイルカの区別がついて無かったんじゃないかな?
でもって、鮫は海女(人間)を襲うけど、イルカは襲わない。
もちろんクジラは、(大きさが違うから)鮫と区別が付いてたでしょうけど。
これを区別するため、山幸彦は紐小刀(ひもがたな)を鮫にプレゼントしたと推測します。
とにかく、本当の姿を見られたトヨタマヒメは恥ずかしい!

「これからいつも、あなたのところに通おうと思ってました。
でも、あなたに本当の姿を見られた今、それは叶わないことです」

トヨタマヒメは海坂(うなさか)を塞いで、海底宮殿に帰って行きました。
生まれた子は天津日高日子波限建鵜葺草葺不合命(アマツヒタカヒコナギサタケウカヤフキアエズノミコト)、通称「アエズノミコト」と言います。
アエズノミコトも「高日子」という名前が付いてますね。さらに、アエズノミコトは一人っ子。縁起のいい3兄弟ではなくて一人っ子。ここだけ天皇のご先祖様は、何故か一人っ子です。

「なして見たかねえ…」

山幸彦は九州弁で後悔します。
アエズノミコトを養うよう言われてきたトヨタマヒメの妹、玉依毘売(タマヨリビメ)が山幸彦に伝えます。

「赤珠はその紐まで輝いていますが、白珠でもあなたが身に着けるなら、尊いものです」

ここでも「珠」が出てますね。ちなみに魏志倭人伝にも「白珠」という表現が出てきます。万葉集では「白玉」と書かれています。どちらも真珠を意味します。
山幸彦は返します。

「鴨が集まる島で、夜を共にした愛しい人。決して忘れない。君のことをいつまでも…」

神話の主人公は、アエズノミコトに移ります。
アエズノミコトはトヨタマヒメの妹、タマヨリビメに育てられて、すくすくと成長しました。タマヨリビメはアエズノミコトから見れば、叔母ですね。
ある日、アエズノミコトはタマヨリビメに告白します。

「おばさん、結婚しよう!」

アエズノミコトは、熟女フェチでした。
2人の間に生まれたのが、五瀬命(イツセノミコト)、稲氷命(イナヒノミコト)、御毛沼命(ミケヌノミコト)、 若御毛沼命(ワカミケヌノミコト)の4人です。
特に末っ子のワカミケヌノミコト、その別名を「豊御毛沼命(トヨミケヌノミコト)」、あるいは「神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)」と言います。
末っ子のワカミケヌノミコトに、こんな別名はあるのは当然。この神様こそ、初代神武天皇になるのですから。

ところでここ、3人じゃなくて4人の子供が生まれてます。4は「死」を意味すると解釈しました。フラグが立ってますね。
4人兄弟の内、ワカミケヌノミコト以外の誰かがこの後死ぬのですね、分かります。

海底宮殿

さて、山幸彦が行った魚鱗で造られた海底宮殿。浦島太郎のベースとなった、この神話。海底宮殿とは何処なんでしょう?
稗田阿礼は、地名ははっきり明記しています。
出雲をはじめとして、筑紫の高千穂の日向、越の国、美濃国、信濃国等々。
きっと海底宮殿という「地名」を創作したのには、何か訳があるな。

そう考えて思いついたのは外国。当時の外国と言えば、朝鮮半島か中国大陸にあった国です。私は任那を連想しました。任那は大和王権が、やたらと朝鮮半島進出を画策してた拠点だったから。調べると、

「任那日本府(みまなにほんふ)は、古代朝鮮半島にあったとする日本の出先機関である」

任那日本府が実在していたことは、物的証拠から明らかです。
朝鮮半島南部に前方後円墳があり、そこから北陸地方でしか採れないヒスイの勾玉も出土しています。
もちろん任那日本府があったのは古墳時代。西暦562年まで存続しました。

ひょっとして海底宮殿とは、ここか?
任那日本府の前、弥生時代、朝鮮半島南部にどんな国があったんだろう?
調べてみると「弁韓(べんかん)」という国がありました。弁韓、どんな国だ?
魏志倭人伝があるのなら、「魏志弁韓人伝」もあるのでは?
と思って検索したらビンゴ!
「魏書弁辰伝」という書がありました。それによると、

弁韓は土地は肥沃で、五穀や稲の栽培に適していた。蚕を飼い、縑布(目を緻密に固く織った平織りの絹布)を作った。大鳥の羽根を用いて死者を送るがそれは、死者を天空に飛揚させるという意味であった
鉄の産地であり倭、濊(わい)などが採掘していた。市場での売買では鉄が交換されており、それは中国での金銭使用のようであった。

また倭人とも習俗が似ており、男女とも入れ墨をしていたとある。武器は馬韓(ばかん:後の百済あたりに存在した国)と同じであった。礼儀がよく、道ですれ違うと、すすんで相手に道を譲った。
(ウィキペディアより)

下線部にご注目。記紀に詳しい方は、ご唱和ください。せーの、

それって何てヤマトタケル?
記紀をご存知の方は、私と同じくヤマトタケルを連想したでしょう。
ヤマトタケル(日本武尊)、古事記の第2巻 (中巻)に出てくる英雄(?)です。
ヤマトタケル神話を簡単に見ておきましょう。

ヤマトタケルの征西/東征

ヤマトタケルは4世紀前半、第12代景行(けいこう)天皇の時代に居たとされる皇子です(歴史教科書より)。
この頃、南九州に反乱がありました。景行天皇は、次男の小碓命(オウスノミコト)を派遣しました。この南九州の地が熊襲。

オウスノミコトは、女装して熊曽建(クマソタケル)兄弟に近づき、2人とも刺殺します。
弟クマソタケルは死ぬ間際、オウスノミコトに言い残します。

「見事な攻撃だ、オウスノミコト…
これからは、あなたがタケルの名を継ぎ、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と名乗られるがよい…」

だが断る!
私なら断ります。倒した相手の名を継ぐなんて、それこそ穢れてしまうってもんです。
しかしながらオウスノミコトは言われた通り、ヤマトタケルと改名します。

この後、出雲国で出雲建(いずもたける)を、だまし討ちで討ち取る場面がありますが省略。古事記は、「建(たける)」という言葉を強調したいようです。そう言えば「建」が付いた神様が、何人かいたなあ。建御雷之男(タテミカズチノオ)とか、建御名方(タテミナカタ)とか、建速須佐之男(タケハヤスサノオ)とか…
建には「勇ましい」という意味があるのでしょう。
とにかくヤマトタケルは大和に帰ると景行天皇に、今度は東方征伐を命じられます。

「間髪入れずに東征だなんて、オヤジはオレを何だと思ってるんだ?」

ヤマトタケルは、伊勢神宮に参拝します。
そこで伊勢神宮を祀る、倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を受け取ります。
草薙の剣、ヤマタノオロチの尻尾から出てきた、三種の神器の1つですね。
この剣、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と言われますが、これは日本書紀に基づいてます。古事記には一貫して「草那芸剣」と書かれてます。

ヤマトタケルが相模国に入った時、相模国の国造に騙されて野原の中に入ります。そして、その野原に火を付けられます。

ヤマトタケル大ピンチ!
そこでヤマトタケルは草薙の剣で草を薙ぎ払い、逆に火を付けて相模の国造を滅ぼします。
このことによって、天叢雲剣が草薙の剣と呼ばれるようになったと書かれてるのは日本書紀。
ところで以前、似たようなピンチに追い込まれた神様がいましたね。
この部分、アレの焼き回し。

ヤマトタケルは走水海(はしりみずのうみ:浦賀水道)を渡った時、波が荒れて進むことができなくなりました。 その時、ヤマトタケルの妃、弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)は言いました。

「私が身代わりとなって海に入りましょう。あなたは、どうか大切な任務を果たしてください」

こう言ってオトタチバナヒメは、海に飛び込みました。すると海は静まり、穏やかになりました。
人間の命を犠牲にすると、スサノオが泣いて荒れる海が治まる。
当時は、このように考えられてたようです。
この時、オトタチバナヒメは歌を詠みます。

「さねさし 相武の小野に 燃ゆるこの 火中に立ちて 問ひし君はも」
(意訳:相模国の、あの燃えさかる火の中で、私の身を案じて下さった、あなた…)

一見お涙ちょうだいの歌ですが、果たしてどうでしょう?
戦場に自分の妃を連れて行く戦士がいるか、普通?
この後ヤマトタケルは東北の蝦夷を成敗し、大和に帰る途中、群馬県の碓氷峠で、

「ああ、吾妻はや(我妻よ)」

と、嘆きました。
こうして関東、「あずま(東)の国」という地名が生まれたそうです。

ホンマかいな?
ははあ、稗田阿礼はここで「相模国」や「東の国」という、「地名」を謳いたかったんだな。そこから逆算して、オトタチバナヒメを同行させ入水させたのか。
結論から過程を創作する、稗田阿礼の手の内は分かってます。

大和に帰る時、ヤマトタケルは剣を持たないで伊吹山(滋賀県と岐阜県の境の山)に登った時、足が縺れ、次第に歩けなくなりました。破傷風にでもかかったのでしょうか?
そして、何とか伊勢の能褒野(のぼの:三重県、鈴鹿サーキットの北西部)までたどり着きました。
 
「疲れた。私の足は三重に曲がり、とても疲れた…」

薄れ行く意識の中、ヤマトタケルは「辞世の句」を詠います。

「倭は国のまほろば たたなづく 青垣山籠れる 倭し麗し」

(大和は素晴らしい国 幾重にも重なって 青々とした垣をなす山々 その山々に 囲み抱かれる 大和は なんと美しい国だろう)

泣けるぜ…

人々はその場所に陵(墓)をつくって、ヤマトタケルを丁寧に葬りました。するとタケルは、白鳥となって墓から飛び出し、天高く飛んでいきました…