考察:大国主の国譲り

これは、古代出雲歴史博物館に展示されている、古事記の原文(もちろん写本です)。棒線部が、

「私は『百不足八十坰手』に隠れましょう」

と書かれてる部分です。
まず「隠れる」。隠れたのは、ヤエコトシロヌシとオオクニヌシの2人です。
ヤエコトシロヌシは天逆手(あまのさかて)を打って、船をひっくり返して隠れました。
天逆手、つまり柏手を逆に打って隠れた。
これって死を意味してますよ。

ところが死んだはずのヤエコトシロヌシが、「神之御尾(かみのおみ)」の前に仕え奉ると書かれてある。死んだはずのヤエコトシロヌシが、何故仕えることができるのか?
説明不要ですね。
ヤエコトシロヌシ(八重事代主)。スサノオが詠んだ、日本初の歌を思い出してください。

「八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を」

「八重」とは、「なまら、たくさんの」という意味。
天逆手を打って海に隠れたコトシロヌシはオオクニヌシの子供の一人、「事代主の神」だけなんです。
他の大勢のヤエコトシロヌシは、「神之御尾(かみのおみ)」の前、つまり「高天原の神々の尻尾」に仕えた。但しヤエコトシロヌシは、この後一切出てきませんが、何か意味深ですね。

そしてオオクニヌシは、「百不足八十坰手」に隠れました。
オオクニヌシも死んだんです。
水木先生は、オオクニヌシが洞窟に監禁された姿を想像して、その「無念」を描かれてます。

私が「オオクニヌシが死んだ」と考えたのは、出雲大社の参拝儀礼。
オオクニヌシが祀られている出雲大社は、「2礼4柏手1礼」なんです。
一般の神社は、「2礼2柏手1礼」。
4は死、縁起のいい数字ではありません。
今でもあるでしょう。部屋番号が201号室/202号室/203号室ときて、次が205号室であるホテルやマンションが。

「4拍手は、幸せの4拍手です」

出雲大社でバスガイドさんの解説を聞いたことがあるが、どうもピンとこない。
現在でも「4拍手は昔からの習わし」と言うこと以外、正確な意味は分かってません。
私は、オオクニヌシ自ら「隠れましょう」と言ってることから、自決したように思います。ここから「4拍手は死拍手」と考えました。

コラム:アマテラスの天の岩戸隠れ
ちなみに「天の岩戸隠れ」、アマテラスも天の岩戸に隠れてしまいましたね。ここから、
「アマテラスも死んだ」
と解釈することができます。原文は「故於是天照大御神見畏(ここに於いてアマテラスは(スサノオの傍若無人ぶりを見て)畏れ) 、開天石屋戸而(天石屋の戸を開き)、刺許母理坐也(さしこもりました)」と表記されてます。

これを私は「アマテラスは天の岩戸に引きこもった」と意訳しました。つまり、アマテラスは天石屋に「隠れた」わけではない。
しかしながらアマテラスは、

「私が隠れて、高天原や葦原の中国は真っ暗になったと思ってたのに、これは一体…」

自ら「隠れた」と言ってました(原文:因吾隱坐而 以爲天原自闇亦葦原中國皆闇矣)。
また、策士オモイカネは、アマテラスが天の岩戸に隠れた時、「常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)」を集めて鳴かせました。常世で長く鳴いている鳥を集めたんです。

さらにアメノワカヒコが「返し矢」で殺されたとき、喪屋(もや)を作り、いろんな鳥を鳴かせましたね。もっと言うと死んだ後、白鳥となって飛び去って行く神様も、後で登場します。つまり、

「古事記における鳥は、死を意味している」

以上から、アマテラスも死んだと解釈できます。スサノオと誓約を行ったアマテラスと、天の岩戸から引っ張り出されたアマテラスは別の神様。
真相はどうなんでしょう?
はっきり言って、よく分かりません。判断材料が無いから。が、1つだけ思い当たったことがあります。

(1) 高天原におけるスサノオは、日本を取り巻く自然災害の象徴
(2) 葦原の中国におけるスサノオは、治水という自然災害へ立ち向かう人間の象徴

と解釈しました。アマテラスも同様、

(1) 天の岩戸に隠れる前のアマテラスは、日本を取り巻く太陽(自然環境)の象徴
(2) 天の岩戸から出た後のアマテラスは、天皇のご先祖様の象徴

このように「何を象徴している神様なのか」を考えると、アマテラスが隠れたことも納得できます。(1)と(2)、それぞれ別の「モノ」を象徴しているのですから。

要するに、アマテラスが死んだのかどうかは、ストーリー的にはどうでもいい。そもそもアマテラスが死んだと解釈したのは誇大解釈。常世長鳴鳥(とこよのながなきどり)を集めて鳴かせたのが気になるが、私の考え過ぎなのでしょう。
「高天原の神様が死んだ」と明確に書かれている箇所は、アメノワカヒコ事件だけです。

しかしながら、葦原の中国のオオクニヌシが隠れた(=死んだ)という解釈は、間違ってないと考えてます。

コラム:出雲大社のしめ縄
ご存知の方も多いと思いますが、出雲大社のしめ縄は、一般の神社と逆なんです。
アマテラスが引きこもった「天の岩戸隠れ」の時、アメノタヂカラオがアマテラスの腕を取り岩戸から引っ張り出した後、フトダマが注連縄(しりくめなわ)を岩戸に張りましたね。その時、フトダマは、

「よし、これでアマテラスは岩戸に戻れないぞ」

と言いました。ここから注連縄には「結界」という意味があると考察しました。これはアマテラスが天の岩戸に再び戻れないように、結界を張ってます。ところが出雲大社のしめ縄は、それと逆の締め方。

つまり出雲大社のしめ縄は、大国主が外に出られないように張られていると考えることができます。神様を閉じ込めるしめ縄って一体…
後で考えてみましょう。

次に「天津日繼(あまつひつぎ)」。現在では「天津日継」と書き、皇位、または皇位継承を意味するようです。
古事記が書かれたのは奈良時代。いろいろ調べましたが、「天津日継」が皇位、または皇位継承を意味するようになったのは、奈良時代以降みたい。
そりゃそうです。古事記が日本最古の文章なのですから、それ以前のことは調べようが無い。

従って、古事記の「天津日繼」が皇位、または皇位継承を意味してたとは限りません。
(後世で古事記に基づいて、皇位継承と解釈した可能性が高い)
ここでは、
「天つ神が日々過ごされている」
と、意訳しました。
ここまでは言葉の解釈。本題はここから。2点あります。

「但し、私の住む所は、地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、天つ神が過ごされている高天原まで届く神殿を造って治めて頂ければ、私は『百不足八十坰手』に隠れましょう」

その1:
「地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く壮大な神殿を造れ!」
スサノオが、オオクニヌシに言った言葉です。
そのまんまの言葉をオオクニヌシは、タテミカズチに言ってますね。
考えられることは、2つに1つ。

(1) オオクニヌシは、スサノオの言うとおりの神殿を造って無かった。
(2) オオクニヌシは、スサノオの言うとおりの神殿を造っていたので、古事記はそれを引用した。

もし(2)が正解だったら、古事記はこの部分に関してウソを書いてたことになります。
高天原まで届く神殿があったのですから、古事記は後付け。既に存在してた神殿に基づいて創作したことになりますね。
個人的にはオオクニヌシが、スサノオの言いつけに背いてたとは思えないんだけんどもがなあ…

その2:
「私は『百不足八十坰手』に隠れましょう」
百不足八十坰手、この解釈が大きなポイント。コトバンクによると、

(1) 百不足(ももたらず)とは「100に足りない数である80」の意
(2) 八十隈手(やそくまで)とは八十隈と同意、多くの曲がり角の意

まず(1)から、百不足とは80の枕詞であることが分かります。100に足りない80、当たり前の話だ。
問題は(2)。コトバンクで「八十坰手」を検索すると、「八十隈手」と変換されます。ふりがな文庫には「八十坰手:やそくまで」と、そのまま表記していますが、意味は解説されてません。

何故、八十坰手が八十隈手と変換されるのか?
犯人は日本書紀。書紀には「百不足之八十隅」と書かれてます。
おそらく日本書紀は、オオクニヌシは「多くの曲がり角を曲がった隅」に隠れたと解釈したのでしょう。つまりオオクニヌシは、どこか遠いところに隠れた。ここからもオオクニヌシは死んだと解釈できます。

しかしながら私は、古事記に書かれている「坰」という漢字が気になります。
「坰(ケイ)」は中国語。そこでGoogle先生の出番!
坰を中国語 → 英語変換するとenvirons。「周辺」という意味です。もしくはwilderness、「荒野」と返ってきます。日中辞典によると、昔の書き言葉で「郊外の野原」という意味。日本書紀に書かれている「隅」とは、意味が異なります。
コトバンクには「八十隈手(やそくまで)とは八十隈と同意」と書かれてましたね。それでは「手」を削除して解釈してみましょう。
「百不足八十坰」の意味は、

「そんなに遠くない荒れ地」

オオクニヌシは、すぐ近くに隠れたんです。
これが「八十坰」、8の10倍とだけ書かれてたら「遠い荒れ地」、根の堅州国に隠れたと解釈できるでしょう。ところがオオクニヌシが隠れたのは「百不足八十坰」。すなわち100に足らない80。何故「百不足(ももたらず)」という枕詞が付けられたのか?

それは決して根の堅州国ではない。隠れた(自決した)と言っても百には足りない、そんなに遠くない荒野にいるぞ!
これ、呪いの言葉ですよ。2礼4柏手1礼、日本一大きなしめ縄が逆。これらは大国主が「そんなに遠くない荒野」から戻って来れないようにするための儀式のような気がしてきました。
ちなみに「百不足八十」をGoogle先生で中国語→日本語変換すると「80未満」と返ってきます。

国譲りの成立

この後、オオクニヌシは料理を出して、タテミカズチを接待します。
ダイジェストで書くと、

(1) 出雲の多芸志(たきし)の小浜に御殿を設けた。
(2) 櫛八玉神(クシヤタマノカミ)を料理人とし、そこで宴会を開いた。
(3) クシヤタマノカミは海底に潜って土を取り、それを基に食器を作った。
(4) 海藻を刈って、それで火を焚いた。
(5) 火は高天原のタカミムスヒに煤(すす)が届くまで焼き上げる。
(6) 地底の大岩まで焼ける火を焼く。
(7) それで、漁夫に釣らせた鱸(すずき)をたくさん焼いた。
(8) そして、天の魚(原文:天之眞魚)を奉げた。

ダイジェストにしても細かすぎ!
なんか変です。あまりにも細かく書かれ過ぎてます。ちなみにこの部分、先に紹介した古事記の原文写真に一部が写ってますので、ご参照ください。

はじめは国譲りが平穏無事に行われた。従ってオオクニヌシがタテミカズチをもてなした。国譲りの正当性を強調するために、接待が行われたことを細かく描写したと解釈しました。
が、以下のことに気づき、考え直しました。

「高天原のタカミムスヒに煤が届くほど、地底の大岩が焼けるほど火を焚く」
「地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く壮大な神殿を造れ!」

何か似てませんか?
いや、むしろ逆。こんな火を焚くと、

「地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く壮大な神殿」

は、燃え崩れてしまいます。
そしてオオクニヌシは、タカミムスヒに煤を届けた。
思い出してください。タテミカズチは、オオクニヌシに言いました。

「アマテラスとタカギノカミから授かった、詔(みことのり)を伝える」

タカギノカミはタカミムスヒの別名でしたね。タテミカズチは、

「アマテラスとタカミムスヒから授かった、詔(みことのり)を伝える」

とは言ってません。
しかしながらオオクニヌシは、(タカギノカミではなく)タカミムスヒに対して、

「あンた、背中が煤けてるぜ」

と返してます。さらにタカギノカミことタカミムスヒは、国譲りには関わってない。
これ、呪いの宴会ですよ。ひょっとしてオオクニヌシは、

「地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く壮大な神殿」

に火をつけて燃やして隠れた!?
とにかくタテミカズチは高天原に戻り、葦原の中国と「和平」が成立したことを報告、国譲りは終了します。
原文に、はっきり「和平」と書かれてます。
まとめると、

アマテラスが「その国譲れ」と言った。
オオクニヌシは、アマテラスの要求に応じた。
結果、高天原と葦原の中国に和平が成立した。

話の筋は通ってます。
が、私は要求に応じたオオクニヌシの態度に、違和感(=呪い)を感じました。

さて、出雲神話はここで終了。
古事記は「天孫降臨編」に移りますが、その前に、国譲りの物的証拠を検証してみましょう。

弥生時代/古墳時代の遺跡群

歴史教科書:
まず、歴史教科書を確認しましょう。
今更ですが、弥生時代の後は古墳時代が始まります。

古代国家は、どこでもたいてい王の巨大な墳墓を残す。日本列島でも3世紀以降、最初は近畿地方や瀬戸内海沿岸に、やがて広い地域にまるで小山のように盛り上がった、方形(四角のこと)と円形を組み合わせた古墳が数多く造られた。これを前方後円墳という。
(中略)

葬られているのは、主に地域の支配者であった豪族たちである。大和(奈良県)や河内(大阪府)には、ひときわ巨大な古墳が多かった。この地域の豪族たちが連合して統一権力を起ち上げたためと考えられ、これは大和朝廷と呼ばれている。

地方の豪族たちの上に立つ大王(おおきみ)の古墳は、ひときわ巨大であった。わけても日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。古墳は3世紀ごろに造営が始まり、7世紀ごろまで造られた。

古墳時代のはじまりは、3世紀(西暦200年代)だったことが分りますね。
次に、遺跡群を見てみましょう。

神原神社古墳:
神原神社(かんばらじんじゃ)は、島根県雲南市加茂町にある神社です。昔は古墳の上にありました。この古墳は縦横30m弱の方墳(長方形の古墳)で、島根県では最古に属する4世紀中ごろの前期古墳です。

竪穴式石室から、魏の「景初三年(西暦239年)」という碑文が刻まれた銅鏡が出土しました。これを「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と言います。
銅鏡は、古代出雲歴史博物館で見学可能。

魏志倭人伝によると西暦239年、邪馬台国の女王「卑弥呼」が「魏」に使いを送り、銅鏡100枚を下賜(かし)したらしい。
神原神社古墳から出土した三角縁神獣鏡が、卑弥呼が下賜したものかどうかは、意見が分かれてるようです。が、本物かレプリカなのかはどうでもいい。大事なのは「景初三年」という碑文が刻まれていたこと。

魏の年号は信用できます。何と言っても、三国志の一角を占めた国の年号なのですから。そのうち魏志倭人伝も、調べてみなければいかんなあ。
ところで、出土したのは銅鏡だけではありません。

棺の中には、被葬者に副えて多くの鉄製品が納められていたのです。主なものとして、大刀、鉄剣、鉄鏃などの武器や、鏨(たがね)、錐(きり)、鎌、鋤先(すきさき)といった農工具類があげられます。このうち、とても興味深い副葬品に鉄鏃(てつぞく:鉄製のやじり)があります。出土したほとんどの鉄鏃は、鑿頭式(さくとうしき)とよばれる、先端が鑿のように水平になった鉄鏃でした。調査の結果、この鉄鏃は地元ではなく畿内で製作され、神原に持ち込まれたらしいことが分かったのです。
(島根県雲南市役所HPより)

下線は私が追加しました。
近畿地方の文化が、遅くとも4世紀には出雲地方に入っていたことが分ります。

古志本郷遺跡:

古墳時代が始まると、それまで地域色があった土器は近畿地方の土器の影響を受けて、全国的に似通ったデザインになっていきます。山陰地方でも近畿地方の影響を受けますが、比較的遅くまで地域色を残しています。
(ガイドブックより)

古代出雲歴史博物館には、出雲市の古志本郷遺跡(こしほんごういせき)から出土した、4世紀の土器が展示されています。この遺跡からも、出雲地方に近畿地方の文化が入ってきたことが分かりますね。

四隅突出型墳丘群:

1世紀(弥生時代後期)になると、山陰地方は他の地域よりも早く、青銅器のまつりを行わなくなります。その後しばらくして、各地の王(首長)を埋葬するための墳墓が大型になっていることから、王の権力が強くなったと考えられます。弥生時代の墓は、地域ごとに特色ある形をしています。山陰地方では、四隅が突き出た「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」が造られました。

西谷3号墓は、出雲平野を代表する大型の四隅突出型墳丘です。岡山・丹後・北陸系の土器や、中国産の水銀朱、大陸産のガラス玉が出土するなど、各地との交易を行っていた首長が葬られていたものと考えられます。墳丘の裾(すそ)には2重に敷石、立石がめぐり、墳丘斜面は貼石(はりいし)で覆われています。

島根では2世紀後半には、一辺が50mもある巨大な四隅突出型墳丘墓が造られるようになります。この時期に造られた墳墓の中では岡山県の楯築(たてつき)墳丘墓の次に大きい、国内でも最大級のものです。大陸や朝鮮半島から運ばれる鉄や、先進的な品々の流通をおさえた各地の王(首長)の権力がピークに達したことを反映しています。

以上、ガイドブックより引用しました。
さらに鳥取県埋蔵文化財センターのパンフレットに、墳丘が造られた時期とエリアが掲載されています。

現在の島根県、鳥取県、福井県、石川県、富山県、広島県、岡山県、兵庫県にわたって、墳丘が存在します。
パンフレットには、以下のように解説されています。

四隅突出型墳丘墓の変遷[模式図]
時期のⅣは弥生時代中期の後半、Ⅴは弥生時代後期を示します。Ⅴ期の1~4は後期を四段階に区分したもので、1が最も古く4が最も新しい時期を示します(一覧表の時期も同じです)。Ⅴ期に続く時期は古墳時代になり、四隅突出型墳丘墓は造られなくなります。

最後の1文にご注目。

「Ⅴ期に続く時期は古墳時代になり、四隅突出型墳丘墓は造られなくなります」

古墳時代に入ると、四隅突出型墳丘墓は造られなくなったわけ。
これは弥生時代から古墳時代に、一気に移行したことを示しています。縄文時代が、だんだんと弥生時代に移行したのとは異なります。
時代が一気に変わるためには、それなりのイベント(出来事)が必要。例えば平安京への遷都、鎌倉幕府の成立、室町幕府の成立、織田信長の天下統一、徳川幕府の成立、大政奉還など。

弥生時代から古墳時代に移行したイベントは何でしょう?
もちろん、オオクニヌシの国譲りです。
そして、譲られたのは古代大和朝廷(大和王権と呼ぶべきか)だったことを遺跡が語ってます。
その時期は、歴史教科書や遺跡から判断して、ズバリ西暦250年。プラスマイナス10年の誤差を見ておけばいいでしょう。
個人的には、墳丘が造られなくなった時期から判断して、西暦250~260年のどこかだったと考えてます。

長野県の古墳群:
長野県松本市立考古博物館に、興味深い図が展示されています。
ネットで拾った図がこれ。

諏訪湖は、タテミナカタが留まった地でしたね。その諏訪の地から、 越の国/美濃の国への出入り口を古墳群が塞いでるように見えませんか?
私には古墳時代、諏訪湖周辺に何かを閉じ込めていたように見えます。

ちなみに諏訪湖周辺からは、縄文時代の遺跡が数多く発見されますね。そんな諏訪湖畔にタテミナカタ、つまり弥生時代に繁栄した出雲の神が留まった。
何か意味深です。

古墳の副葬品:
古墳で思い出したのが副葬品。あなたも学校で習ったように、古墳からは棺に納められた人の装身具や銅鏡、鉄剣や甲冑、馬具、勾玉、土器、埴輪などが出土されます。
これで1つ、気づいたことがあります。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から発見された、銅剣/銅矛/銅鐸は、古墳からは出土しません。

ちなみに四隅突出型墳丘からは、土器や石杵(石のきね)、中国産の水銀朱、ガラス玉などが出土しています。墳丘からも銅剣/銅矛/銅鐸は出土していませんが、これは当たり前の話。

「1世紀(弥生時代後期)になると、山陰地方は他の地域よりも早く、青銅器のまつりを行わなくなります。その後しばらくして、各地の王(首長)を埋葬するための墳墓が大型になっていることから、王の権力が強くなったと考えられます」

とガイドブックに書かれてましたね。
墳丘/古墳から出土した青銅器は銅鏡のみ。しかも銅鏡は、墳丘からは出土してない。つまり、弥生時代後期「青銅器のまつりを行わなくなり、墳丘が造られるようになった」のに、銅鏡という青銅器が古墳から出土してるんです。
明らかに弥生時代の権力者と古墳時代の権力者は、異なる文化を有してます。古墳からは(近畿地方から出土される)銅鐸ではなく、銅鏡が出土しているのですから。