天照大御神と迦毛大御神

こう考えるとアマテラスとアヂシキタカヒコネ、何故この二人だけが「大御神」なのかが初めて分ります。
アヂシキタカヒコネは、迦毛大御神(カモノオオミカミ)と書かれてましたね。

オオクニヌシは、ワカヒコと同じ九州出身の(=ワカヒコとそっくりな)迦毛大御神を邪馬台国に派遣した。迦毛大御神ことアヂシキタカヒコネは、邪馬台国に飛んで行った。そして、卑弥呼(天照大御神)とアヂシキタカヒコネ(迦毛大御神)が交渉した。結果、和平が成立。両国間の深い谷に、管玉の「輪」が繋がったんです。

歴史的大偉業を成し遂げた二人を「大御神」と呼んで当然でしょう。
この時オオクニヌシは、まさか卑弥呼に管玉のネックレスをプレゼントしたんやないやろね!?
仮に卑弥呼がオオクニヌシに抱かれてたら、どんな歴史になったのでしょう?
こればかりは、永遠の謎。

もちろん異論/反論は、たくさんあるでしょう。但し、1つだけ条件を付けさせてください。
アマテラスとアヂシキタカヒコネ、何故この二人だけが「大御神」なのかを明確に説明してから反論してください。

ちなみに天照(アマテラス)と下照(シタテル)、「天と下」、略して「天下」。
ここも対の名前になってますね。アマテラスは、

「芦原の中国は私の子、アメノオシホミミが治めるべきと知らされた国なのです」

と言って国譲りを迫りました。それに対してシタテルヒメは、夷振の歌を返した。
稗田阿礼は、邪馬台国と出雲国の対立と交渉、その結果から、対となる2人の神様を創作しています。
アマテラスも卑弥呼(日巫女)をモデルとして、稗田阿礼が創作した神様なんです。

「そんなバカな!
第11代 垂仁天皇が、伊勢神宮にアマテラスを祀ったんだぞ。
古事記が書かれた712年より前に、伊勢神宮はあったじゃないか」

そう、たしかに古事記より伊勢神宮の方が歴史は古い。
しかしながら第11代 垂仁天皇が伊勢神宮に祀ったのは、アマテラスではなく三種の神器の一つ、八咫の鏡(やたのかがみ)です。

第10代(第3代?)崇神天皇が八咫の鏡を畏れたのは当然。八咫の鏡が象徴するアマテラス(=卑弥呼)の気持ちになって考えてみてください。

「私がせっかく和平を結んだ出雲国を滅ぼすなんて、あなた達は何てことしてくれたの!」

結果、八咫の鏡は14回も引っ越すことになりました。そして天皇家は、

(1) 八咫の鏡を畏れ続けた。
(2) 八咫の鏡は今の天皇とは、血統的に無関係だから無視し続けた。

間違いなく(1)が正解です。神功皇后に憑依した神様を思い出してください。

「この国は、神功皇后の腹にいる子が統治されるべき国である」
「それでは神功皇后のお腹にいるお子さまは、君たち女の子、僕たち男の子、どちらですか?」
「男の子」
「あなた様は一体?」
「アマテラス(原文:天照大神)の御心である」

神功皇后の腹にいる子、すなわち仲哀天皇の子ではない応神天皇が統治されるべき国であると、アマテラスの御心が宣言しているのですから、八咫の鏡を畏れ続けなければならない訳にはいかない。

私が調べた限り、伊勢神宮を初めて参拝した天皇は明治天皇。800年ぶりに天皇に実権が戻ってきたためでしょう。今まで八咫の鏡を遠ざけてきたことは間違いだったと。
そうでしょ、宮内庁さん?

そして古事記は夷振の歌の後、タケミカヅチが引佐の浜で十拳の剣の上に胡坐をかいて、国譲りを迫ります。
もちろんこれも稗田阿礼の創作。大和王権が出雲国を滅ぼしたことを隠ぺいするため。
しかしながら稗田阿礼は歴史家でした。邪馬台国と出雲国に和平が成立したことを知っていた。だからタケミカヅチがアマテラスに、

「葦原の中国(=出雲国)と和平が成立した」

と、報告させる。これはウソではなかった。しかし書けない。和平が成立した出雲国を大和王権が滅ぼしたなんて、死んでも書けない。
代替えとして、夷振の歌を書き残したんです。

天皇こそ日本を治めるにふさわしい方なのだが、歴史をねつ造するわけにはいかない。
夷振の歌は稗田阿礼&太安万侶にとって、ギリギリの選択だったでしょう。

太安万侶、よくぞ夷振の歌を書き残してくれた!
夷振の歌が無かったら、邪馬台国と出雲国に和平が成立してたなんて、絶対に分からなかった。改めて、稗田阿礼と太安万侶に感謝です。
それにしても日本は、何という数奇な歴史を持ってるのでしょう。
アマテラスとスサノオの誓約、お互いの息を吹きかけて男5人/女3人、合計8人の神様が生まれましたね。

「互いの息を吹きかける」

私は、邪馬台国と出雲国の交渉、「話合い」に基づいて創作された神話だと考えてます。

阿遅志貴高日子根

アヂシキタカヒコネ、別名「迦毛大御神(カモノオオミカミ)」。
この神様が邪馬台国と出雲国に和平を成立させたなんて、記紀に詳しい方ほど信じられないでしょう。実際、阿遅志貴高日子根をネットで検索すればするほど、訳が分からなくなります。私自身、

「本当に、自分の考察は間違ってないのか?」

何度も自問自答しました。他にアヂシキタカヒコネに関する記述は無いのか?
いろいろ調べた結果、出雲国風土記にアヂシキタカヒコネに関する記述がありました。出雲国風土記は733年、聖武天皇に奏上されたらしい。古事記が献上されてから21年後に奏上されたわけですね。出雲国風土記には、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)の系譜に関する記述があります。
それによると阿遅須枳高日子命の、

父 :大穴持命(おおなむち。大国主のこと)
妻 :天御梶日女命(あめのみかじひめ)
子 :多伎都比古命(たきつひこ)
子 :塩冶毘古能命(やむやびこ)

と書かれてます。お気づきでしょうか?
古事記ではアヂシキタカヒコネの、

父 :大国主
母 :多紀理毘売命(タキリビメ)
妹 :下照比売(シタテルヒメ)

と書かれてましたね。出雲国風土記には、古事記に記載されてなかった妻と子が追記されてます。逆に言うと、風土記には母と兄妹に関する記述は無い。ここから出雲国風土記の編纂者は、古事記を読んでいたことが分かります。

次に阿遅須枳高日子命は、風土記ではどんな神様だったのか?
2つ見つけました。

その1:
大神大穴持命(大国主のこと)の御子、阿遅須伎高日子命(あじすきたかひこ)は、御須髭(みひげ:あご鬚)が八握(やつは:こぶし8つ分)に生えるまで、昼夜泣いてばかりで言葉が通じませんでした(スサノオみたいですね)。

どうして阿遅須伎高日子命は、泣いてばかりなのだろう?
大国主は夢で「御子が泣くわけをご教授ください」と祈願すると、御子が言葉が通じるようになった夢を見ました(崇神天皇みたいですね)。大国主は目覚めて、御子に問いかけました。
その時、阿遅須伎高日子命は「御澤(みざわ)」と喋りました。これが三澤郷(みざわごう)という地名の由来です。

その2:
賀茂神戸(かもかんべ:神戸とは租庸調の基準となった民戸のこと)
所造天下大神命(大国主)の御子、阿遅須枳高日子命(あじすきたかひこ)は、葛城の賀茂社に鎮座している。この神の神戸である。だから鴨という。神亀三年(726年)に賀茂と改めた。

風土記はここで、賀茂(かも)という言葉の由来を謳ってますね。調べると鴨氏の祭神ということで、奈良県御所市鴨神の金剛山東山麓にある高鴨神社(たかかもじんじゃ)にアヂシキタカヒコネは祀られています。高鴨神社は、京都府京都市の賀茂神社(上賀茂神社・下鴨神社)を始めとする全国のカモ(鴨・賀茂・加茂)神社の総本社らしい。古事記には、

「鴨君の祖は、意富多多泥古(オオタタネコ)」

と書かれてます。(原文:此意富多多泥古命者神君鴨君之祖)
オオタタネコ、三輪山の大神(=大物主)を祀った人でしたね。その子孫が鴨/賀茂/加茂と呼ばれた氏。その鴨氏が、阿遅須枳高日子命を祀った。
どうやら、迦毛大御神(カモノオオミカミ)という神様の由来を謳い直してるようです。

確実に言えることは、迦毛(カモ)という神様は、古墳時代から崇拝されていた。その神様に稗田阿礼は、大御神(おおみかみ)という称号と、アヂシキタカヒコネという名称を追記した。
古事記にはアヂシキタカヒコネを紹介する時、以下のように書かれてます。

此之阿遲鉏高日子根神者 今謂迦毛大御神者也
(このアヂスキタカヒコネの神というのは、今で言うカモノオオミカミのことです)

鉏(スキ)とはサイと読み、刀や小刀/刃物、あるいは鋤(すき)という農耕具を意味する。(コトバンクより)
さらに高日子根(タカヒコネ)。稗田阿礼は、「高日子の根本となる神様」と謳い直してます。その神様は、古墳時代から祀られていた迦毛(カモ)神。さらに大御神(おおみかみ)という称号まで与えました。
アヂスキタカヒコネという神様は、稗田阿礼にとって、よほど印象的な神様だったのでしょう。

ここまで!
これ以上、深掘りはできない。アヂシキタカヒコネが九州と関係のある神様であるとか記載されてることを期待して調べましたけど、収穫無し。
残念ですが、調べるのはここまでです。

和平

古事記に明記されている「和平」。日本人は、いつから「和平」という言葉を使い始めたのでしょう?
少なくとも古事記に記述されているのですから、遅くても8世紀には存在していたことは確実ですね。そして「平和」と「和平」、どちらもGoogle先生で翻訳すると、

英語  :peace
フランス語 :La paix
ドイツ語 :Frieden
イタリア語 :pace
スペイン語  :La paz
ロシア語 :мир
中国語 :和平

と、返ってきます。
すべての言語はとても調べきれませんが、「平和」と「和平」という言葉を使い分けてるのは、おそらく日本人だけ。平和と和平の違いは、あなたもご存知の通りです。

(1) 平和とは、争いの無い「状態」のこと
(2) 和平とは、争っている状態から争いの無い状態へ「遷移」すること

従って、過去に争った実績がなければ「和平」という言葉は生まれません。それでは奈良時代より前に起こった争いを見てみましょう。

(1) 卑弥呼が倭国大乱を経て、倭国を統一して和平が成立した
(2) 白村江の戦いに敗北したことで、和平が成立した
(3) 壬申の乱で、天武天皇が勝利したことで和平が成立した

全て日本語として変。意味が通じないでしょう?
そして平和とは、「争いの無い状態」ですから、

(1) 卑弥呼が倭国大乱を経て、倭国を統一して平和になった
(2) 白村江の戦いに敗北したことで、平和になった
(3) 壬申の乱で、天武天皇が勝利したことで平和になった

変な言い回しもありますが、言葉の意味は通じます。
繰り返しますが、「争った結果、平和になった実績」が無ければ、和平という言葉は生まれません。但し、「話合い」は必須条件ではない。争った結果、互いの力を認め合って、漫画のように和平が成立する可能性もあるでしょう。しかしながらそのような歴史は、私が調べた限り、世界史を含めても皆無。

「話合いの結果、邪馬台国と出雲国に和平が成立した」

「和平」は、この実績に基づいて生まれた言葉だと考えます。いろいろ調べましたが、8世紀までに「争った結果、話合いによって決着した実績」は、これしか見つからないし、思い付きませんでした。

と言うのはウソ!
「争った結果、話合いによって決着した実績」が、もう一つあると考えます。それは倭国大乱の結果。

「卑弥呼が倭国大乱を経て、倭国を統一して和平が成立した」
「倭国大乱の結果、(30余りのクニが)卑弥呼を共に王に立てた」

魏志倭人伝や後漢書東夷伝に記載されてるように、卑弥呼は「共立」されて女王となりました。30余りのクニが話し合った結果、卑弥呼を共に王に立てた。この史実に基づいて「和平」という言葉が生まれたのかもしれません。
もちろん個人の感想、判断はあなたにお任せします。しかしながら、

「話合いの結果、邪馬台国と出雲国に和平が成立した」

ことは間違いないと考えます。そもそもタケミカヅチはアマテラスに、「葦原の中国(=出雲国)と和平が成立した」と、はっきり報告しているのですから。
倭国大乱を経て、倭国を統一した卑弥呼は、「話し合いの大切さ」を知っていたのかもしれません。

「以和爲貴(和をもって貴しとなす)」

超必殺、飛鳥文化アタックを開発した聖徳太子もおそらく、和平を知っていたはずです。話合いによって軍事国家と治水国家間に、和平が成立したことを知っていた。結果、「以和爲貴」。
この言葉、相当なバックボーン(支柱)を持ってないと、そう簡単には宣言できませんよ。
日本国を象徴する「和」。聖徳太子が「話合い」を重要視したのも、過去の実績に基づいたんじゃないかな?

「そうなんですか、太子?」
「わたしを見直したか、小野イナフ」
「イナフじゃない、妹子です!」

太子と妹子を調べると和と仏教の関係、「エンタシス」と呼ばれる、古代ギリシャのパルテノン神殿と同じ支柱構造を用いた法隆寺、1:√2の「白銀比」で構成された五重塔など、非常に興味深いですが、それは別のお話。