平安時代

平安時代は、怨霊信仰が特に強くなった時代です。安倍晴明(あべのせいめい)に代表される陰陽師(おんみょうじ)が活躍したのもこの時代。
このような平安時代、天皇は大国主の祟りをどう考えたでしょう?

橿原の地から逃げてもダメ、古事記に「今の天皇を祟るのは筋違いです」と書き込んでもダメ、仏教の力に頼ってもダメ。大国主の祟りはパワーアップしています。

こうなったら原点回帰!
「但し、私の住む所は地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、天つ神が過ごされている高天原まで届く神殿を造って治めて頂ければ、私は『百不足八十坰手』に隠れましょう」

その通りの出雲大社を造ります。結果、「雲太、和二、京三」。

平安時代中期(970年)に書かれた「口遊」には、当時の大きな建物として、雲太、和二、京三が挙げられています。当時、大仏殿の高さは15丈(約45m)あったとされます。出雲大社は、それ以上の高さを誇ったのでしょうか。伝承では、かつては16丈(約48m)の高さがあったともいい、古代に巨大な神殿が存在した根拠の1つとされています。

ガイドブックに書かれている通りのことが起こりました。大仏殿の高さは15丈、出雲大社は16丈。測ったように、きっちり1丈高い(1丈は約3m)。てか、測ってます。このことから平安時代の出雲大社は、東大寺大仏殿より後に建てられたことが分かります。

いろんな祟り、特に大国主の祟りを静めるために建立した、奈良の大仏が収まる東大寺大仏殿より、大国主が鎮座する神殿の方が高くなければ意味が無い。

私の妄想に基づくと平安時代、出雲大社が何故、日本一の高さ48mを誇ったのか、明確に説明できるでしょう。
その後、大国主の祟りがどうなったかは、あなたがご判断下さい。私の記憶が確かならば、この後政治の実権は藤原氏に移り、源平合戦の後、いい国作ろう鎌倉幕府、武士の時代が始まります。
再び天皇に実権が戻ってくるのは1867年、大政奉還まで待たなければなりませんでした。

宇佐八幡宮神託事件

前述のように道鏡という僧侶は、自らが天皇になろうとしてました。このような「大国主の祟り」を防いだのが宇佐八幡宮の神託。標題の通り、「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれてます。以降、ウィキペディアから抜粋して説明します。

弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、孝謙(こうけん)上皇の病を治したことから、その信頼を得て出世した。天平宝字8年(764年)、孝謙上皇と対立した最高実力者、藤原仲麻呂が反乱を起こした(藤原仲麻呂の乱)。上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して、仲麻呂を滅ぼした。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁(じゅんにん)天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが天皇に復位することを宣言した。

復位した称徳(しょうとく)天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には「法王」となる。こうして称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入した。

だが反仲麻呂派の貴族の大勢は、あくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。
称徳天皇は独身で子供もいなかったため、その後の皇位を誰が継ぐのかが政界の最大の関心事となった。

神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が、

「道鏡を皇位につかせたならば、天下は泰平である」

という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫:わけのひろむし)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂(わけのきよまろ)を派遣した。

清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り、宣命(せんみょう:天皇の宣言文)を読もうとした時、神が禰宜(ねぎ:宮司の補佐をする人)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが清麻呂は、

「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ:皇位継承のこと)は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」

という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。
道鏡を天皇に就けたがっていた称徳天皇は報告を聞いて怒り、清麻呂を左遷した。
10月1日には詔を発し、皇族や諸臣らに対して聖武天皇の言葉を引用して、みだりに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自らが決める事を改めて表明する。

細かい部分はカットしたり、注釈や下線を追加したり私が編集してますが、ウィキペディアにはこう書かれてます。
何か、変じゃないですか?
要約してみましょう。

(1) 道鏡は宇佐八幡宮の神託を奏上し、自ら皇位に就くことを望んだ
(2) 宇佐八幡宮は、法均の派遣を要求した
(3) 法均の弟、和気清麻呂が宇佐八幡宮に派遣された
(4) 宮司の補佐をする人が、和気清麻呂の宣命を拒んだ
(5) 和気清麻呂は「開闢以来の天皇の血を絶やしてはならない」と、神託を受けた
(6) 道鏡を天皇に就けたがっていた称徳天皇は清麻呂を左遷、「次期皇位継承者は自分が決める」と宣言した

結果、道鏡が皇位に就くことはありませんでした。
称徳天皇は、道鏡を次期天皇に就かせようとしてました。だから、自分の意向に反する神託を受けた和気清麻呂を左遷した。称徳天皇は、神託に反してでも道鏡を天皇に就かせたかったはずです。ところが、

「みだりに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自らが決める」

要するに、「道鏡は天皇としない」と宣言した。和気清麻呂が持ち帰った神託通りの結果になってます。それでは何故、和気清麻呂は左遷された?
称徳天皇は、いつどこで心変わりした?
その他「宣命」、天皇の宣言文は何だったとか、宇佐八幡宮に僧形の大神が出現したとか、仏教と神道がごっちゃになったりして、いろいろ変ですが、一番のツッコミどころは、

何故、宇佐八幡宮の宮司が出てこない?
神託は禰宜(ねぎ)という、宮司の補佐官が仕切ってます。事は、補佐官が決められる問題ではない。天皇家の存続が神託にかかってるんですよ。そこに何故、宇佐八幡宮の宮司が出てこない?

「逆に考えるんだ。全ては宇佐八幡宮の宮司のシナリオだったとね」

またまた5ちゃんを通じて、神託を受けました。宇佐八幡宮とは何か、そもそも皇位継承に何故、宇佐八幡宮が絡んでくるのか、根本を調べる必要があります。

宇佐八幡宮

私的な話で恐縮ですが、私は福岡県北九州市出身。大分県宇佐市にある宇佐八幡宮こと、宇佐神宮(うさじんぐう)には、何度か行ったことがあります。
祖父の話によれば、私が初めて歩いたのは宇佐神宮だったらしい。
家族旅行で大分県の宇佐神宮に行った時のことです。戦時中、満州鉄道の機関士だった祖父が両親に言いました。

「一成(←私の本名)を歩かせてみい」

当時私は、「はいはい」から「つかまり立ち」までしかできませんでした。戦後、シベリア強制連行を何とか逃れて帰国した祖父は、宇佐神宮で強制的に孫を歩かせた。結果、私は「よちよち歩き」したらしい。

両親は、私が歩くとは夢にも思ってない。当然私は、靴を履いてませんでした。てか、靴を持ってなかった。
記憶違いかもしれませんが、玉砂利の上を裸足で歩いた記憶がうっすらとあります。
じいちゃんの記憶が残る地、宇佐神宮。公式HPを見ると祭神は、

一之御殿 :八幡大神「誉田別命(ほんだわけのみこと)、応神天皇」
二之御殿 :比売大神(ひめおおかみ)
三之御殿 :神功皇后

神託も何も、道鏡が天皇の座に就ける訳無いじゃん!
実質的な初代天皇が祀られている宇佐神宮まで和気清麻呂が行ったのは、ご先祖様のご意向を伺うためでしょう。ちなみに誉田別命とは、日本書紀に書かれている応神天皇の呼称です。古事記では、品陀和気命(ホムタワケノミコト)と書かれてましたね。

とにかく、宇佐神宮の祭神が応神天皇であることが分かっただけで、全ての紐が解れました。
仏教徒の道鏡が天皇になろうとした。応神天皇が祀られている宇佐神宮の宮司が、それを許すはずがない。

「道鏡が天皇になるのなら、オレも天皇になれるんじゃね?」
「いや、お前よりも修行しているオレの方が天皇にふさわしい」
「仏教って、天皇になれる力があるのか」
「いや~仏教って、本当にいいものですね」
「よーし、お父さん仏教徒になっちゃうぞ!」
「私も天皇になれるよう、功徳(くどく)を積もう」

「おだまりなさい!!
次期皇位継承者は、私が決めます」

おそらくは、宇佐神宮の宮司に諭されたであろう称徳天皇(女性天皇)が、覚悟を決めたのも当然の結果です。道鏡は、自ら墓穴を掘ることになりました。

「神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と、大宰主神の習宜阿曾麻呂が、
『道鏡を皇位につかせたならば、天下は泰平である』
という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。」

と、ウィキペディアに書かれてましたね。ちなみに、

(1) 大宰帥(だざいのそち/だざいのそつ)とは、大宰府(九州筑紫)の長官。それが道鏡の弟である弓削浄人(ゆげのきよひと)
(2) 大宰主神(だざいのかんづかさ)とは、管内諸社の祭祀を司る大宰府職員

のことです。
大宰府。ご存知の通り、白村江の戦い以降、朝鮮半島からの侵略を防ぐための最前線基地。重要な場所でした。そこを司る役人たちに、道鏡の息がかかっていた。
要するに当時、「九州でいっちゃん偉い役人たち」が、道鏡を皇位につかせるべきと進言した。つまり道鏡は、自分の配下にある(と考えた)宇佐八幡宮を利用したわけ。

宇佐八幡宮の真の意味を知らなかった一族が辿った末路。この後、道鏡一族がどうなったかは、お察しください。

ところで、宇佐神宮の二之御殿に祀られている「比売大神(ひめおおかみ)」って何でしょう?

比売神(ひめがみ)は、神道の女神である。
神社の祭神を示すときに、主祭神と並んで比売神(比売大神)、比咩神、姫大神などと書かれる。これは特定の神の名前ではなく、神社の主祭神の妻や娘、あるいは関係の深い女神を指すものである。最も有名な比売神は、八幡社の比売大神である。
(ウィキペディアより)

八幡社の総本山が宇佐神宮。比売大神って、「女神様たち」という抽象表現なのですね。それでは、宇佐神宮に祀られている「比売大神」って誰でしょう?
宇佐神宮のHPに書かれてます。比売大神とは、

「多岐津姫命(タギツヒメノミコト)、市杵島姫命(イチキシマヒメノミコト)、多紀理姫命(タギリヒメノミコト)」

古事記では、多岐都比売命(タギツヒメ)、市寸島比売命(イチキシマヒメ)、多紀理毘売命(タキリビメ)と書かれてましたね。
アマテラスとスサノオの誓約で生まれた女神様です。この女神様たちは「宗像三女神(むなかたさんじょしん)」と、古事記に書かれています。もちろん福岡県宗像市にある、宗像大社に祀られています。
それでは、宗像大社のHPに行ってみましょう。