三韓征伐(その2)

この後、神功皇后は三韓を征伐します。正確には新羅を屈服させ、百済は「渡屯倉(わたりのみやけ)」と定めたと書かれてます。屯倉(みやけ)とは、大和王権の直轄領のこと。
しかしながら一般的に「三韓征伐」と言われてます。調べてみると、高句麗まで征伐したと書かれているのは日本書紀。古事記には新羅を屈服させ、百済を直轄領にしたという「二韓征伐」が書かれています。前述の広開土王碑によると、百済/新羅を一時的には占領したみたいですから、まんざらウソではないのかもしれません。

それから神功皇后は三韓征伐時、お腹の子供が生まれそうになったため、腹に石を巻いて出産を遅らせたそうです。
神功皇后は筑紫国に帰り、その子(オオトモワケ)を産みました。生まれた地は福岡県の宇美(うみ)。

ここは古事記中巻の終わり、完全に「人代記」に入ってます。タテミカズチが引佐の浜で十拳の剣の切っ先で胡坐(あぐら)をかいた「神代記」ではありません。腹に石を巻いて出産を遅らせるなんて不可能。

稗田阿礼&太安万侶、何故こんな見え見えの大ウソを書いた?

ヤマトタケル神話は、大和王権が熊襲&蝦夷征伐に失敗したことを美化したと考察しましたね。同じ理屈で、大和王権は朝鮮半島進出に失敗したことの裏返しと解釈できます。
しかしそれでは、神功皇后が腹に石を巻いて出産を遅らせたと、稗田阿礼が創作した意味が分からない。

神功皇后の三韓征伐には、ヤマトタケルの征西/東征以上の「大ウソ」を書かなければならなかった「何か」があります。
とにかく、神功皇后は三韓を征伐して帰国しました。そして、

「我に反乱を企てている輩がいる」

と察知。そこで葬船を用意してオオトモワケを載せ、

「オオトモワケは死んだ」

と、噂を流します。その噂を聞いたのが香坂王(カゴサカノミコ)と忍熊王(オシクマノミコ)。2人とも仲哀天皇の子供です。オオトモワケから見れば異母兄弟。
香坂王と忍熊王の母は、大中津比売命(オオナカツヒメノミコト)と書かれてます。オオトモワケの母、神功皇后は息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)でしたね。
オシクマは言います。

「兄貴、オレたちだって仲哀天皇の息子だ。
オレたちにも皇位継承権があるんじゃないのか?」
「分かった、それでは誓約(原文:宇氣比)に委ねようではないか」

2人は斗賀野(とがの:高知県高岡郡)で狩りをします。結果、兄のカゴサカは猪に食べられてしまいました。
へぇ~、熊と同じく猪も人を食べるんだ。知りませんでした。

とにかく誓約の結果は「大凶」と言うことでしょう。
しかしながら天皇は、ここに限っては一子相伝。生まれる前からオオトモワケに決まってました。それでも弟のオシクマは、葬船に攻撃開始!
古事記、久々の戦闘シーンです。戦いは激戦となりました。

(1) オキナガタラシヒメ(神功皇后)軍団の団長は、建振熊命(タテフルクマノミコト)
(2) オシクマ軍団の団長は、伊佐比宿祢(イザイノスクネ)

タテフルクマは言います。

「戦闘中止!
我らが神功皇后は崩じてしまった。
これ以上、戦うことはできない!」

それを聞いてイザイノスクネ軍団は弓を収め、兵を引きます。
その時、神功皇后の号令が響きました。

「今だよお前たち、ヤッておしまい!」

アラホラサッサー!
タテフルクマ軍団は、髪の中から予備の弓を取り出し追撃しました。逢坂山(おうさかやま:滋賀県大津市の山)で再び決戦!
イザイノスクネ軍団はタテフルクマ軍団に、だまし討ちされました。

ひでぶっ!
追い攻められて、沙沙那美(ささなみ:場所不明)で殲滅されます。
イザイノスクネとオシクマは、船に乗って辞世の句を詠みます。

「兄貴、タテフルクマに負けてしまった。かくなる上は、淡い海(原文:能阿布美)に潜ろう…」

以降はダイジェストで紹介。
不老不死のじーさん、建内宿祢は皇太子(原文:太子)に禊ぎをして頂くため、 淡海(原文まま:近江)と若狭国を経由、高志(越)の先の角鹿(敦賀)で、皇太子は禊ぎを行います。

ここもツッコむところ。皇太子は、いつどこで穢れた?
何故、禊ぎをしなければならない?
穢れた死人のふりをしたから穢れた?

「死人は穢れている」という当時の考えは理解できますが、死人のふりをしたから穢れたという理屈は分からない。仮に、死人のふりをしたから穢れたのであれば、神功皇后も禊ぎをしなければならない筈です。

コラム:大神
ちなみに皇太子に禊ぎに立ち会ったのが、伊奢沙和氣大神之命(いざさわけのおおかみのみこと)。別名、御食津大神(みけつおおかみ)、氣比大神(けひのおおかみ)とも言います。この神様も「大神」と書かれてますね。
大神に立ち会って頂くと言うことは、よほど禊ぎが大切なイベントだったのでしょう。

とにかく皇太子は禊ぎを済ませ、都に帰還します。神功皇后は酒を持出し、歌を詠みます。

「この神酒は、私が作ったものではありません。酒の司は、常世に坐す少名御神(スクナビコナ)が祝い狂って奉られた神酒です。残さず飲み干しなさい。さあ!」

建内宿祢が皇太子に代わって返します。

「この神酒は臼を鼓にして打って、歌いながら醸造したかもしれない。舞いながら醸造したかもしれない。この神酒で酔って歌えば、なお楽し。さあ!」

これは「酒を楽しむ歌」なんだってさ。

稗田阿礼、はっきし言ってワンパターン!
ここまで来たら、稗田阿礼の考えが手に取るように分かって草!
ついでに言うと江戸時代の国文学者、本居宣長は神功皇后の歌をこう書いてます。

「この御酒は 我が御酒ならず 酒の司 常世に坐す 石立たす 少名御神の 神寿き 寿き狂ほし 豊寿き 寿き廻ほし 献り来し御酒ぞ あさず食せ ささ」

少名御神は常世に座って「石立たす(原文:伊波多多須、いわたたす)」、石(いわ)になってるんだってさ。
明らかに三輪山の麓、辺津磐座(へついわくら)を意識してます。
本居宣長、どうやら私と同じ結論に達したな。が、江戸時代という時代背景もあって忖度(そんたく)したか…

とにかく、この皇太子が第15代応神天皇。生まれる前から男の子、生まれる前から天皇になるとアマテラスが予言していました。古事記にそう書いてあります。

考察:神功皇后の三韓征伐

繰り返しますが神功皇后の三韓征伐。古事記に何故、見え見えの大ウソが書かれたのでしょう?

「逆に考えるんだ。神功皇后の三韓征伐が無かったら、どうなったかとね」

5ちゃんねる(旧2ちゃんねる)に、

「神功皇后の三韓征伐の正体を教えろください」

なんてスレを立てたら、必ずこのようなレスが返ってきます。5ちゃんを通じて、霊感ゼロの私にも神託が届いてます。三韓征伐が無かったら、

「神功皇后のお腹の子供が生まれそうになったため、腹に石を巻いて出産を遅らせた」

この理屈が通らなくなるだけ。このためだけに、見え見えの大ウソが書かれた。
何故こんな大ウソが書かれたのでしょう?
もうお分かりですね。答える前に、

「人間は、何故ウソをつくのか?」

定量的に分析してみましょう。
何でもいいんですが「浮気」を例にとって考えてみます。
夫が妻に内緒で、浮気をしてたとします。
妻が夫の浮気に気づかないうちは、夫は妻に何も言いません。ところが妻が夫の浮気に気づき始めたら、夫はウソをつきます。

「あなた、昨日の夜はどこ行ってたの?」
「スマン、急な仕事が入って徹夜で仕事してたんだ。
ウソだと思うなら、部下に確認してくれ」

これは、
「浮気をしていると言う真実」
を隠すため、ウソをついてます。隠し事をすることと、ウソをつくことは同義!
何気に大事な人生教訓です。
それでは「見え見えの大ウソ」をつくのは、どんな時でしょう?

「あなた、昨日の夜はどこ行ってたの?」
「スマン、急な仕事が入ってニューヨークに出張してたんだ。
ウソだと思うなら、トランプに確認してくれ」

このように「見え見えの大ウソ」をつくのは、浮気をしているという「真実」に気づいて欲しい場合に使用します。
「浮気が本気になった。オレと別れてくれ、忖度しろ」
要するに「空気読め」って時に、見え見えのウソをつきます。
うん、我ながら的確な分析だ!

以上に基づいて、「神功皇后の三韓征伐」のウソを見てみましょう。
まず、仲哀天皇の崩御。暗闇の中、神功皇后の神託の只中で崩御されましたね。これは、

「仲哀天皇は殺害された」

という真実を隠すためにウソをついてます。犯人はお察しください。
そして、

「神功皇后が三韓征伐した際、お腹の子供が生まれそうになったため、腹に石を巻いて出産を遅らせた」

という、見え見えの大ウソをついたのは何故?

「神功皇后のお腹の子供は、仲哀天皇の子供ではない」

という「真実」に気づいて欲しかったんです。誰に気づいて欲しかったのでしょう?

もちろん大国主に!
「あなたを滅ぼした天皇の血は、仲哀天皇で断絶しています。今の天皇は、神武天皇ゆかりの血統ではありません。従って、現在の天皇を祟るのは筋違いです。
大国主、どうか祟らないでください…」

大国主は天皇家に祟ってきましたね。祟るからには見られている。大国主は「そんなに遠くない荒れ地」に隠れて、天皇の一挙手一投足を見ている。ならば古事記に書き込めば、大国主も読んでくれるだろう。今の天皇は、あなたとは何の関係も無いことを分かってください…

皇太子(応神天皇)が、禊ぎをしたのは当然。よくあるでしょう。どっかの国の政治家が不祥事を起こし、虎の門病院に入院して、ほとぼりが冷めた頃、
「禊ぎは済んだ」
と、何事も無かったかの如く出てくることが。これは、

「今までのことは、無かったことにしよう」

と、過去をリセットしたつもりになってます。
応神天皇の禊ぎもそれと全く同じ。応神天皇は、過去の天皇の血をリセットしたつもりになる必要があったんです。
そしてスクナビコナの酒を飲みます。スクナビコナ、

「これは本当に私の子だ。あまりに小さくて私の指の間から漏れ落ちた子だ。
お前たちは兄弟となって、堅くその国を作りなさい」

と、カミムスビが言ってましたね。スクナビコナは、オオアナムチ(=大国主)の義兄弟なんです。そのスクナビコナが醸造した酒を飲んだ。

「我々は、出雲国を滅ぼした天皇とは何の関係も無い。その証拠にあなたの義兄弟、スクナビコナの酒を飲みました。
我々はあなたに敵意はありません。スクナビコナが祝い狂って醸造した盃をあなたと交わしたのですから」

稗田阿礼は、義兄弟杯という「結論」から逆算してスクナビコナを創作してます。だから、スクナビコナは(大国主の)国造りの何に貢献したのか分からない。「過程」がスカスカだったんです。

奈良時代

「大国主命、どうか今の天皇を祟らないでください」

と、古事記に書きこみ、平城京に遷都して始まった奈良時代。大国主の祟りはどうなったのでしょう?
後は歴史教科書を読めば、簡単に分かります。

聖武天皇(しょうむてんのう)の治世(724~749年)になると、疫病や天災がたびたび起こり、土地を離れ逃亡する農民も増えた。
~中略~
聖武天皇は仏教に頼って国家の安定を祈願し、全国に国分寺と国分尼寺を建て、東大寺の大仏をつくる詔を出した。

民衆を襲う疫病や天災は、大物主の心が乱れるためでしたね。三輪山の麓、大神神社の祭神が確定したのは、この頃だったはずです。少なくとも720年以降でなければ、日本書紀に書かれた大物主/大己貴神/少彦名神を祀れない。

同時に仏教に頼ってますね。結果、奈良の大仏を建立した。つまり仏教は、祟りを鎮めるための新兵器だったんです。大物主&大国主、その他いろんな魑魅魍魎の祟りを鎮めるためのスペシウム光線だったのでしょう。

そうでないと、租庸調(そようちょう)という重税を国民に課して、それを湯水のごとく投入して建立した、世界最大の銅像の説明が付かない。
私は特に、大国主の祟りを鎮めるための大仏だったと考えてます。大国主はピンポイントで天皇に祟ってきますからね。

このように聖武天皇は、様々な祟りを鎮めるため仏教の力に頼った。ところがこれが裏目に出てしまう。
歴史教科書の続きを見てみましょう。

8世紀の中ごろから貴族どうしの勢力争いがはげしくなった。また、政治に大きな力をふるった道鏡(どうきょう)のような僧も現れた。このような国政の混乱に対し、桓武天皇(かんむてんのう)は都を移すことで、政治を刷新しようと決意した。
寺院などの古い勢力が根をはる奈良の地を離れ、これまでのしがらみを断ち切った改革を実行しようとしたのである。

新しい都は794(延暦13)年、交通の便利な今の京都の地につくられた(平安京)。この都は明治維新ののちに都が東京に移るまで、約1000年もの長い期間にわたって存続した。なお、平安京への遷都から鎌倉に幕府が開かれるまでの約400年間を平安時代とよぶ。

道鏡というのは、自らが天皇になろうとした仏教徒です。この時、「宇佐八幡宮神託事件」というイベントがあったのですが、調べてみると大変面白い。後で見てみましょう。
とにかく道鏡は、天皇になろうとした。仮に道鏡が天皇になってたとしたら、神武天皇から続く(とされる)、天皇の血が途切れてしまいます。天皇家にとって、道鏡事件は最大の危機でした。

もうお分かりですね。大国主は天皇家に祟ってきます。
仏教の力に頼ったことによって、大国主の祟りはパワーアップしてしまったんです。結果、

「遷都!」
仏教の勢力が蔓延る奈良盆地から完全に脱出。都を京都に移し、鳴くよウグイス平安時代が始まりました。
ちなみに遷都した桓武天皇は、天智天皇のひ孫です。天武天皇系が支配した奈良時代から天智天皇系へ再び移行、同時に都も平安京へ遷都されました。