三輪山信仰

順番に考えましょう。まず弥生時代、大国主は後に御諸山/三輪山と称される、「大和を取り囲む山々の東の山」を神聖視した。理由は自分の親族をその麓に移住させたため。
山を神聖視することは、縄文時代からあったはずです。少なくとも弥生時代、山岳信仰は確実に存在した。

そりゃそうです。山から流れる「石清水」が無ければ田畑は作れない。山に棲む、シカやイノシシが居ないとタンパク質が獲れない。そして山は、時に集中豪雨によって枯れ、川を氾濫させる。何故そうなるのか、気象知識がない当時の人には分からない。

自然の恵みと脅威は表裏一体、山を神聖視して当然です。そこに古墳時代、岩信仰(巨石信仰)が結びついた。

磐座(いわくら)と呼ばれる、岩(石)を神聖視するようになったのは古墳時代からです。弥生時代に岩を神聖視する理由は無いし、海女の存在が書かれている魏志倭人伝にも、磐座信仰の記述は無い。

「意富多多泥古(オオタタネコ)に、わしを祀らせるがいい。
そうすれば流行病は治まる」

第10代 崇神天皇の神床に現れたのは、三輪山の神様「大神」です。大物主ではない。
古墳時代、崇神天皇が畏れ、オオタタネコに祀らせた三輪山はこう。

この図をご覧ください。出雲国とは全く関係ない。関連付けたのは稗田阿礼です。

「何故オオタタネコに大神を祀らせたら、流行病が治まったのか?」

稗田阿礼は調べたはずです。結果、オオタタネコの出自に行きついた。
オオタタネコの祖先に大国主の血が入っていた。大国主は現在(奈良時代)の三輪山を神聖視していた。その子孫であるオオタタネコが三輪山(奥津磐)に鎮座する大神を祀ったから、流行病が治まった。

同じく神武天皇の正妻である、比売多多良伊須気余理比売(ヒメタタライスケヨリヒメ)。これも出雲族だった。しかも大国主の近親だった。

「ホムチワケの口がきけないのは、わしの祟りのせいなのじゃ」

第11代 垂仁天皇の夢に現れた、出雲大神の祟りの正体に稗田阿礼は気づいた。何故、大国主は天皇に祟って来るのか、その理由に気づいた。それは自分の孫(or ひ孫)に滅ぼされたから。

神武東征は、(卑弥呼が送り出したのですから)2世紀後半から3世紀前半のイベント。崇神天皇は、3世紀後半から4世紀前半の天皇。この間を繋ぐには、天皇は1代か2代で十分。
「古事記誕生秘話」では簡略化して、1代として創作しました。大国主の孫である〇〇天皇が、出雲国を滅ぼした。

何と言う運命の皮肉!
神武天皇が高佐士野(三輪山の北)で出会った、8人ではなく7人の乙女たち。その中から選んだ正妻が、大国主の娘だったとは…

「何という八千矛パワー!
大国主の子供は、一体何人いたんだ?
感心している場合ではない。古事記にどう書けばいい?」

稗田阿礼は悩んだはずです。悩みながら三輪山の麓を散歩してました。そこで見たのが、古墳時代から神聖視されている辺津磐座(へついわくら)。そこからヒントを得て、少名毘古那(スクナビコナ)という小人の神様を創作した。

「そうだ、弥生時代終末期に起こったイベントを神話化すればいい。
そうすれば、神武天皇の正妻の出自も神話化することができる。
まず、スクナビコナ(辺津磐座)という小人のパートナーと、オオクニヌシ(中津磐)に国造りさせ、大物主(奥津磐)に引き継がせる」

稗田阿礼に出雲神話の骨格が出来上がって行きます。その時、大国主の声が響きました。

「お主、よくそんなウソを思いつくな。
わしは、奈良盆地を取り囲む山々の東の山を神聖視しただけじゃ!
三輪山も少名毘古那(スクナビコナ)も大物主も、わしは知らんぞ!」

そうだった、大国主は現在「三輪山」と呼ばれる山を神聖視しただけだった。そこに磐座信仰は無い。
それでは、スクナビコナと大穴牟遅(オオアナムチ)が国造りをしたことにしよう。

「スクナビコナは大国主と固く国造りをした」

と書かなければウソにはならない。スクナビコナは(大国主ではなく)、オオアナムチと固く国造りをした。
そして大国主が、名前も分からない神様を大和を取り囲む山々の東の山に祀らせたことにしよう。その神様を「大物主」と、後世の人間が勝手に呼ぶのは問題ない。現に我々は、「大和を取り囲む山々の東の山」を三輪山と呼んでいるのだから。

そして大物主に奇想天外な夜這いをかけさせ、イスケヨリヒメとオオタタネコの出自に神話のベールをかける。
単なる推測で書いてるわけではありません。こう考えないと、

「何故3人の神様、特に少彦名神(スクナヒコナ)が三輪山に祀られているのか?」

説明が付かないんです。

「いや、オオアナムチとスクナビコナの国造りの結果、奈良盆地が五穀豊穣の地となったと考えれば、スクナビコナが三輪山に祀られているのも不思議ではない」

と解釈することもできますが、ソース(証拠)がない。そもそも三輪山に祀られたのは、スクナビコナが常世の国に去った後に登場した大物主です。

こうして稗田阿礼は、三輪山からヒントを得て出雲神話を創作しました。結果、古事記(正確には日本書紀)に基づき大神神社が誕生、三輪山は出雲国の象徴となりました。
そして、大急ぎで藤原京から平城京に遷都した。

以上は、もちろん私の推測です。妄想と言ってもいい。しかしながらこの妄想に、かなりの自信があります。
私の妄想に基づくと、古事記の大ウソの謎や、奈良時代から平安時代への流れが芋づる式に解けてくるんです。まずは「古事記の大ウソ」から読み解いてみましょう。

神功皇后の三韓征伐

神功皇后(じんぐうこうごう)とは、第14代仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の項に登場します。もちろん仲哀天皇の皇后。古事記には、息長帯比売命(オキナガタラシヒメノミコト)と書かれてます。

記紀によると神功皇后は、朝鮮半島に渡って新羅/高句麗/百済の3国を征伐したそうです。4世紀から5世紀にかけて、たしかに大和王権は朝鮮半島に進出してました。
現在の中華人民共和国吉林省(きつりんしょう)に、広開土王碑(こうかいどおうひ)という石碑が立ってます。そこには、高句麗の第19代広開土王の業績が、漢文で刻まれてます。それによると、

百済と新羅は元々高句麗の属民で朝貢していた。ところが391年、倭は海を渡ってきて百済、新羅を破り臣民にした。
396年、広開土王は自ら軍を率い百済を討伐した。

399年、百済は誓いを破って倭と同盟を結んだ。そこで王は、百済を討つため平壌に出向いた。その時、新羅からの使いが「多くの倭人が新羅に侵入し、王を倭の臣下としたので高句麗王の救援をお願いしたい」と願い出たので、大王は救援することにした。

400年、5万の大軍を派遣して新羅を救援した。新羅王都にたくさんいた倭軍が退却したので、これを追って任那・加羅に迫った。
404年、倭が帯方地方(現在の平壌辺り)に侵入してきたので、これを討って大敗させた。
(ウィキペディアより抜粋)

広開土王碑は風化のため、一部判読不能な部分があります。そこで倭に関して、解読可能な部分だけを抽出しました。まとめると、

「倭国は百済と同盟を結び、新羅に攻め入った。そこで新羅は高句麗に協力を依頼した。結果、高句麗/新羅連合軍が百済/倭国連合軍を新羅から撃退した。さらに高句麗は、平壌辺りで倭を撃退した」

と書かれてます。もちろん碑文は広開土王の功績を記述したものですから、高句麗が正義!
高句麗が勝利するのは当然です。

ところで日本の正史には、新羅/高句麗/百済の3国を征伐したと書かれている。
正確には(後述しますが)、古事記には「百済と新羅を征伐した」と書かれてます。百済と同盟を結んで、新羅に攻め入ったことが誇大表現された。「新羅の王都を占領した」と、広開土王碑に書かれているから、百済/倭国軍は、一時的に新羅を占領したのかもしれません。
ところがその後、高句麗/新羅連合軍に撃退されてしまった。

要するに300年以上前の戦争が、大本営発表として日本の正史に書き込まれた訳です。そして、

中大兄皇子は662年、百済に大軍と援助物資を百済に送った。唐・新羅の連合軍との決戦は663年、半島南西の白村江(はくすきのえ)で行われ、2日間の壮烈な戦いののち、日本軍の大敗北に終わった(白村江の戦い)。日本の軍船400隻は燃え上がり、天と海を炎で真っ赤に焼いた。そうして百済は滅亡した。
(歴史教科書より)

古事記が完成する半世紀前、日本は朝鮮半島への足掛かりを完全に失ってます。つまり、戦後50年に「神功皇后が三韓を征伐したことがある」と書かれたんです。
例えば私が、大東亜戦争(太平洋戦争)に日本が負けたのが悔しくて、

「かつて日本は、大東亜共栄圏を確立したことがある。
日本はインドシナ、タイ、ボルネオ、東インド、ビルマ、オーストラリア、ニュージーランド、インド帝国を支配したことがある」

なんて書いたら、あなたは信じますか?
それと同じことが、奈良時代に書かれたんです。当時の人も絶対に信じちゃいない。
何故こんな、見え見えの大ウソが書かれたのでしょう?
神話(神代記)にあれだけ神経を使った稗田阿礼&太安万侶、何故こんなウソを書いた?
感情的に言えば、古事記はここで突然乱れたと言ってもいい。

この部分、ツッコミどころ満載なので見ておきましょう。古事記中巻ラス前に、第14代仲哀天皇の項があります。

三韓征伐(その1)

オキナガタラシヒメ(神功皇后)は、大鞆和気命(オオトモワケノミコト)、別名、品陀和気命(ホムタワケノミコト)を生みました。大鞆和気命と呼ばれる理由は生まれた時、鞆(とも)のような肉が腕についていたからです。このため胎内にいた時から、国を定める人と決まってました(原文:腹中定國也)。

冒頭からツッコまなければなりません。
オオトモワケは、生まれる前から天皇になることが決まってたんだってさ。
仲哀天皇には、(省略しましたが)他にも子供がいたと言うのに。
いきなり結論から入る稗田阿礼、アクセル全開です。

仲哀天皇は、筑紫の訶志比の宮(かしいのみや、福岡県福岡市東区あたり)に滞在し、熊曽の国を撃とうとしてました。
熊曽の国、熊襲のことです。ヤマトタケルが熊襲を征伐したのは、第12代景行(けいこう)天皇の時代でしたね。その熊襲を第14代仲哀天皇は撃とうとしてたんだってさ。
結論は2つに1つ。

(1) ヤマトタケルは熊襲征伐に失敗していた
(2) 仲哀天皇は(ヤマトタケルが熊襲征伐に成功していたので)、別の目的で福岡まで来ていた

歴史教科書には、(1)が正解と書かれてます。

(奈良時代)東北地方には蝦夷と呼ばれる人々、九州南部には熊襲または隼人と呼ばれる人々がいて、古くから大和朝廷に服従しなかった。しかし律令国家が順調に進展するにつれ、北も南も次第に平定が進み、琉球諸島の最南端の信覚(しがく:石垣島)や球美(くみ:久米島)の人々も、早くも8世紀初頭に平城京を訪れ朝貢した。

古事記の続きを見てみましょう。
ある夜、神託を受けるため、仲哀天皇は琴を弾きました。武内宿禰(たけしうちのすくね)が横に座ります。

じーさん、あんた一体何歳だ?
武内宿禰とは、景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたとされる忠臣。古事記には、第8代孝元天皇(こうげんてんのう)の孫と書かれてます。
おそらく武内宿禰に象徴される、天皇の執事的な役割を持っていた氏がいたのでしょう。
神功皇后は神がかって、以下のように言います。要するに、卑弥呼のようにトランス状態になって言いました。

「西方に国が有り、その国には金銀がある。炎のように輝いて見える珍宝が多数ある。私はその国に行こう」
「えっ!?」

仲哀天皇は戸惑います。

「我々は南九州の熊襲を征伐するために福岡まで来たってのに、(奈良盆地から見て)西方に行けってどゆこと?」

琴を弾く仲哀天皇の手が止まります。
武内宿禰は天皇に進言します。

「いけませぬ、琴をお弾き下され!」

仲哀天皇はしぶしぶ琴を弾きます。

プチーン!!
急に、琴の音が途切れました。
武内宿禰は、灯りをともします。

「死んでる…」

仲哀天皇は崩御されてました。
どう見ても暗闇殺人事件です。本当にありがとうございました。
この後、武内宿禰は神功皇后に憑依した神命を請います(原文:請神之命)。

「この国は、神功皇后の腹にいる子が統治されるべき国である」
「それでは神功皇后のお腹にいるお子さまは、君たち女の子、僕たち男の子、どちらですか?」
「男の子」
「あなた様は一体?」
「アマテラス(原文:天照大神)の御心である」

アマテラスの御心が「神功皇后のお腹にいる男の子が天皇になる」と予言してくれたんだってさ。アマテラスは何故、神功皇后の息子、まだ生まれてもいないオオトモワケを天皇に選んだ?
繰り返しますが、仲哀天皇には他にも子供がいました。が、アマテラスの御心には逆らえなかったでしょうね。

コラム:天照大御神と天照大神
話は脱線しますが、面白いことに気づきました。
古事記上巻(神代記)は、アマテラスは「天照大御神」と書かれています。ところが中巻(人代記)に入ると「天照大神」と書かれてるんです。そこで大御神と大神、何か違いがあるのか、整理してみました。

まず大御神、「神様の中の神様」という意味でしたね。神代記、神話の中でも特別な神様という意味でした。それで大御神は、天照大御神(アマテラス)、迦毛大御神(アジシキタカヒコネ)、伊邪那岐大御神(イザナギ)の3神。
次に人代記における大神は、

天照大神/伊勢大神  :アマテラス
大物主大神/美和之(三輪山の)大神 :オオモノヌシ
出雲大神  :オオクニヌシ

この3神です(他にも大神がいますが後述)。出雲大神がオオクニヌシであることは、口がきけなかったホムチワケが出雲大神を参拝した後、
「青葉の山のように見えるのは、山のようで山ではない。出雲の石垣の宮におられる葦原色許男(あしはらしこを)大神の社、祝の大庭ではないか」
と喋ったことから明らか。

お分かりでしょうか?
人代記における「大神」は、天皇が畏れ奉る神様を表しています。何故アマテラスまで畏れたのか不明ですが、14回も引っ越させ、傍国(大和の傍の国)の三重まで追いやったのですから、畏れていたことは明白です。
その畏れる天照大神の御心が、

「神功皇后のお腹にいる男の子が天皇になる」

と、予言してくれましたとさ。何だか、意味深ですねえ…