考察:心御柱がずれた時期

少なくとも鎌倉時代までは、心御柱は絶対に大黒柱だったはず。繰り返しますが、そうでなければ、あのような高層建築は不可能。

巨大本殿を描いた図
(金輪御造営差図:かなわのごぞうえいさしず)
出雲大社の宮司を務める千家国造家に伝わる図で、いにしえの本殿の平面設計図とされるものです。境内遺跡出土の巨大柱と規模・構造・配列に共通する部分があり、本殿建築の復元を巡る論争の鍵となっています。
(ガイドブックより)

設計図があって鎌倉時代の遺跡と共通するということは、心御柱がずれたのは室町時代以降ということになりますね。
歴史の下限は分りました。それでは上限を調べてみましょう。

現在の出雲大社本殿が建築されたのは1744年。以降、本殿はリフォームを繰り返しています。古代出雲歴史博物館に、その模型があります。

大社造(たいしゃづくり) 出雲大社本殿模型
正面2間 × 側面2間、切妻造妻入り(きりづまづくりつまいり)、檜皮葺(ひわだぶき)。千木(ちぎ)までの高さは約24mで、国内随一の高大な本殿建築です。江戸時代前半、1667(寛文(かんぶん)7)年の造替峙、中世以来の仏教色を排除し、当時の考え方として、より古い形式に「復古」した建築でもあります。
国宝/1744(延享(えんきょう)元)年造替 模型縮尺1/50

出雲大社復元模型(寛文期)
1667年、徳川幕府から造営料として、銀2000貫(約7.5t)の提供を受けて完成した出雲大社。高さ8丈(24m)を誇る本殿には、「復古」の精神がこめられています。
(ガイドブックより)

確実に言えることは、遅くとも1744年には心御柱がずれていた。これ以降、本殿はリフォームを繰り返しているのだから。
つまり、室町時代から江戸時代までのどこかで心御柱がずれた。
もっと掘り下げられないか?

「江戸時代前半、1667(寛文7)年の造替峙、中世以来の仏教色を排除し、当時の考え方として、より古い形式に「復古」した建築でもあります」

中世以来の仏教色を排除したって、何でしょう?
ウィキペディアに答えがありました。

祭神の変化
出雲国造新任時に、朝廷で奏上する出雲国造神賀詞では「大穴持命(大国主大神)」「杵築宮(出雲大社)に静まり坐しき」と記載があるので、この儀式を行っていた平安時代前期までの祭神は大国主神であった。

やがて、神仏習合の影響下で鎌倉時代から天台宗の鰐淵寺と関係が深まり、鰐淵寺は杵築大社(出雲大社)の神宮寺も兼ねた。鰐淵寺を中心とした縁起(中世出雲神話)では、出雲の国引き・国作りの神を素戔嗚尊としていたことから、中世のある時期から17世紀まで祭神が素戔嗚尊であった(本来、国引きは八束水臣津野命)。14世紀「当社大明神は天照大御神之弟、素戔嗚尊也。八又の大蛇を割き凶徒を射ち国域の太平を築く」と、杵築大社(出雲大社)の由来が記され、1666年(寛文6年)毛利綱広が寄進した銅鳥居に刻まれた銘文には、「素戔嗚尊者雲陽大社神也」と記された。

さらには鰐淵寺の僧侶が経所で大般若経転読を行い、社殿では読経もした。また江戸時代初期には、社僧が寺社奉行と杵築大社(出雲大社)の営管理に関する交渉を実施していた。

ところが杵築大社(出雲大社)内は、仏堂や仏塔が立ち並んで神事が衰微した。このため寛文7年(1667年)の遷宮に伴う大造営の時、出雲国造家が神仏分離・廃仏毀釈を主張して、寺社奉行に認められた。仏堂や仏塔は移築・撤去され、経蔵は破却された。これに併せて、祭神は須佐之男命から、『古事記』『日本書紀』などの記述に沿って、大国主大神に復した。

平安時代のいつからか、江戸時代(1667年)まで、出雲大社の祭神はスサノオだったんですね。祭神がスサノオじゃ、心御柱をずらす必要は無い。スサノオを牢屋の奥に閉じ込める必要は無いですから。
そもそも神話界のゴジラ、スサノオを牢屋に閉じ込めようと考える人は、今も昔も誰もいません。

心御柱が本殿中心からずれたのはズバリ、祭神がオオクニヌシに戻った1667年です。
改めて、本殿はオオクニヌシを閉じ込める牢屋だったことが分かります。

大国主大神の御神座は本殿内北東にあり、正面である南側ではなく西側を向いている。これは、本殿が古代の高床式住居とほぼ同じ構造になっているため、高床式住居における入口と最上席の配置と向きの関係から、御神座は西側を向くことになるためと考えられる。

ウィキペディアに書かれていることが真実ならば、心御柱をずらす必要は無い。
牢屋の奥深くにオオクニヌシを閉じ込めるため、心御柱をずらした。だから心御柱が中心からずれたのは、祭神がオオクニヌシに戻った1667年。こう考えないと、心御柱がずれた説明が付かない筈です。
が、これでは逆にオオクニヌシの祟りを増大させるのではないのか?

「私を牢屋の奥に閉じ込めやがって!」

はじめは、本殿の内部構造を設計した建築士(デザイナー)の感性を疑いました。しかしながら、どうやら違う。
1667年、心御柱をずらした建築士は、オオクニヌシの祟りを増大させたかった可能性が高い。既にヒントは出ています。

「1667年、徳川幕府から造営料として、銀2000貫(約7.5t)の提供を受けて完成した出雲大社」

出雲大社造替のスポンサーは徳川幕府です。思い出してください。オオクニヌシは天皇家に祟ってきましたね。徳川幕府がオオクニヌシの祟りをどう考えたか?
後は、お察しください。

まとめると、天皇はオオクニヌシの祟りを畏れた。理由は出雲国を大和王権が滅ぼしたから。ここまでは間違いないでしょう。が、それ以上の「何か」があった。
出雲大社の内部構造から、このような感じを受けました。あくまでも「個人の感想」ですが…

話は変わって、弥生時代を調べるためには、どうしても触れなければならない資料がある。これまでも、ちょいちょい出てきた資料。そう、魏志倭人伝です。

邪馬台国と卑弥呼

3世紀に入ると中国では漢が滅び、魏、呉、蜀という三国が分れて争う時代になった。そのうち、魏と親交を結んだ国が日本列島の中にあり、魏からも使者がきた。

3世紀の末に中国で書かれた『三国志』の中に、やはり「東夷伝」があり、日本に関係する部分が魏志倭人伝と呼ばれている。漢字で2000字ほどのこの説明によると、倭の国には3世紀ごろに邪馬台国という強国があって、30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた。卑弥呼は神に仕え、まじないによって政治を行う不思議な力を持っていた、などと書かれている。

しかし、魏志倭人伝を書いた歴史家は日本列島にきていない。それより約40年前に、日本を訪れた使者が聞いたことを歴史家が記していると想像されているに過ぎない。また、その使者にしても、列島の玄関口にあたる福岡県のある地点に留まり、邪馬台国を訪れてもいないし、日本列島を旅してもいない。

記事は必ずしも正確とは言えず、邪馬台国が日本のどこにあったのか、はっきりしていない。大和(奈良)説、九州説など、いまだに論争が続いている。

歴史教科書によると、魏志倭人伝は伝言ゲームの形式で書かれてるんですね。それじゃ不正確な訳だ。が、それ以上に不正確な点がある。ネットで言う、

ソースは?
村人A:
「いらっしゃい、倭国へようこそ」

村人B:
「この国には、卑弥呼という女王様がいるんだ」

村長:
「よくぞまいられた旅の人、わしがこの村の村長じゃ。
卑弥呼について知りたいのか?」

はい
  いいえ

村長:
「ここから東に歩いて3日、南に船で2日、西に歩いて3日、北に船で2日行ったところに、邪馬台国という国がある。その国の女王が卑弥呼と言うのじゃ」

魏の使者は、倭国の誰に話を聞いたんでしょう?
村人AなのかBなのか、はたまた村長なのか、全く分からない。これが魏志倭人伝最大の弱点。

しかしながら中国の歴史書は、年号は信用できる。例えば、島根県雲南市の神原神社古墳から、「景初三年(239年)」という碑文が刻まれた銅鏡が出土しましたね。
西暦239年に、卑弥呼が魏に朝貢したことは事実でしょう。そして神原神社古墳からは、近畿地方で製作された鉄鏃も出土しました。それでは、邪馬台国は近畿にあった!?

邪馬台国の場所

まずは邪馬台国の場所から特定しましょう。邪馬台国は何処にあったのか?
歴史教科書に書かれているように、近畿説と九州説が有力のようです。私は今まで、邪馬台国は近畿に存在したと考えてました。

「邪馬台国という『中くらいの環』が、大きな和『大和王権』になった。倭国とは本来、『和国/輪国』と書くべき、他民族を見下した当て字。そもそも『やまたい』と『やまと』、発音が似ている。だから邪馬台国は、近畿(奈良)にあった」

このように、漠然と考えてました。
が、今回調べてみて、考えを改めました。邪馬台国近畿説の根拠は、箸墓古墳だそうです。箸墓古墳が卑弥呼の墓だそうな。

卑弥呼の墓が前方後円墳であるわけがない。前が方墳、後ろが円墳。方墳と円墳を合体させたもの、略して前方後円墳。つまり方墳と円墳が存在しなければ、前方後円墳は造れない。

魏志倭人伝によると、卑弥呼が死んだのは弥生時代終末期、西暦248年とされています。仮に卑弥呼の古墳があったとすると、方墳か円墳でなければならない。前方後円墳の箸墓古墳が卑弥呼の墓であるはずがない。
それでは邪馬台国があったのは九州?

そう、九州です。
九州の人に話を聞いたのだから、邪馬台国は九州。
話しを聞いた九州の人が、本州や四国を知ってたかどうか定かでない。だから邪馬台国は九州。
話しを聞いた九州の人が、本当の話をしたのか、ウソをついたのかも分からない。だから邪馬台国は九州。
一番肝心のソースが不明確なのだから、邪馬台国は九州。それ以上もそれ以下も、全て憶測になってしまいます。

分からないことは分らない。
どんな調査/研究でも、一定の割り切りは必要。地球温暖化のように、予断に基づいて深掘りすると、必ず真実から遠ざかります。だから本書では、古事記に出てくる全ての神様を、あえて紹介してません。予断に基づいて神様の名前を深掘りしても、真実から遠ざかるだけ。
繰り返しますが古事記の序文に書いてある通り、稗田阿礼も太安万侶も全てを理解してないのですから。

コラム:銅鏡
それでは何故、近畿地方の文化が入った島根県雲南市の神原神社古墳から、魏の年号「景初三年(239年)」と刻まれた銅鏡(三角縁神獣鏡)が出土したのでしょう?
これこそ邪馬台国が近畿にあった証拠ではないのか?

違います。神原神社古墳は4世紀中ごろの古墳でしたね。卑弥呼が生きていた時代と、神原神社古墳に埋葬された人が生きていた時代とは、1世紀の開きがあります。この間に、九州から近畿に移動した勢力があったとすれば、説明が付きます。

そう言えば、九州から近畿に移動した集団がいたなんて話が古事記に書かれてたなあ…

そもそも日本の銅鏡は弥生時代後半、中国大陸(前漢/後漢)から北部九州に入ってきたアイテム。近畿地方から出土している銅鏡は、古墳時代のものです。神原神社古墳から出土した銅鏡も、もちろん古墳時代のもの。ちなみにアマテラスの象徴である「八咫の鏡」とは、大きな銅鏡のことです。

ところで神原神社古墳から出土した銅鏡は、卑弥呼が魏から下賜(かし)されたものかどうか、意見が分かれてましたね。
間違いなくレプリカです。銅鏡が100年も使用できると思いますか?
「銅の鏡」は常に研磨してないと、鏡として機能しない。あっという間に蒼く錆びついてしまいます。研磨するということは、包丁のように擦り切れるということ。銅より固い鉄の包丁を研ぎ続けて、100年使用してみてください。200%不可能ですから。

コラム:邪馬台国(近畿説と九州説)
前述の通り、私は邪馬台国は九州に存在したと考えました。邪馬台国近畿説、これまた前述の通り、箸墓古墳が卑弥呼の墓であり、纏向遺跡から3世紀における、全国から集められた土器が出土するから。このため、

「邪馬台国は九州に存在した。同時期に存在した纏向遺跡は別の王朝」

と考える研究者も少なくないようです。要するに大和王権誕生の地、奈良盆地と邪馬台国とは無関係と言うこと。纏向遺跡からは銅鏡は出土していない。もっと言うと、九州で造られた土器も出土しないんです。
ここから、邪馬台国と纏向遺跡(で政を行った王朝)とは無関係であると考えられます。

だがしかし!
私は、邪馬台国と纏向遺跡は同時期に存在したとは考えてません。基準が違います。

(1) 邪馬台国は、「魏」という中国大陸に存在した国の「年」に基づいて書かれた
(2) 纏向遺跡は、土器の年代測定や、放射性炭素年代測定(C14年代測定法)に基づいて時代が測定された

それぞれ、基準が異なります。前述の通りC14年代測定法は、100年以上古く推定されている可能性が高いし、土器による年代測定は研究者によってまちまち。つまり、

(1) 魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は、2世紀後半から3世紀前半に存在した、九州の国
(2) 纏向遺跡は、3世紀後半から4世紀前半に存在した中央集権の地

と考えます。
要するに(早くて)3世紀後半、何故か突然、纏向に現れて政を行っていたのが古代大和王権。

そして邪馬台国近畿説信者だった私は、日本書記が気になります。
日本書紀によると、箸墓古墳には倭迹迹日百襲姫命(ヤマトトトヒモモソヒメノミコト)が埋葬されています。モモソヒメは、第10代崇神天皇に仕えた巫女でしたね。その巫女から崇神天皇は、夢のお告げを奏上されてます。その結果、大物主を大田田根子に祀らせ、アマテラスを遠ざけた。

ここで言うアマテラスとは八咫の鏡のことです。崇神天皇が銅鏡を遠ざけたのなら、纏向遺跡から銅鏡が出土しないのは不思議ではない。

(1) 前に書いた通り、第10代崇神天皇は、今でいう纏向遺跡で政を行った可能性が高い。
(2) そのご先祖様は、九州からやってきて橿原の地(=三輪山の麓)を制した。
(3) 纏向遺跡は、三輪山の北西麓一帯に存在する。
(4) そして邪馬台国は、九州に存在した…

気になることがあります。
仮に、卑弥呼の墓が箸墓古墳だったとしましょう。その卑弥呼の夫は、大国主が三輪山に祀った大物主。日本書紀には、こう書かれてます。ところが歴史教科書には、

「30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた。卑弥呼は神に仕え、まじないによって政治を行う不思議な力を持っていた」

しっかり「女王」と書かれてます。出雲国も卑弥呼の配下、30ほどの小国の一つだったことになりますね。
日本書紀によると、箸墓古墳の埋葬者はヤマトトトヒモモソヒメノミコトでした。

このお姫様が、女王卑弥呼?
考えられません。だってヤマトトトヒモモソヒメノミコトは、第10代崇神天皇に仕えた巫女だったのですから。大王(おおきみ)に仕えた巫女が、女王である筈がない。
ましてや卑弥呼が、出雲の大国主が三輪山に祀った大物主の愛人になるわけがない。

はっきし言って、卑弥呼の墓は箸墓古墳だったという説は、ここで破綻してます。
邪馬台国近畿説は、箸墓古墳神話が書かれている、日本書紀の記述はウソだと宣言してることになりますよ。つまり、

「日本書記と邪馬台国(魏志倭人伝)とは関係ない」

と、解釈するしかないんですが、日本書紀には気になる記述がありました。これに関しては後述します。