考察:アメノヒボコ

まず古事記。アメノヒボコは、「渡りの神」に阻まれて、難波までたどり着けませんでした。そのため戻って、但馬国に留まりました。
渡りの神、オオクニヌシのことですよ。アメノヒボコはオオクニヌシに、播磨国で阻まれて、大阪まで行けなかった。

播磨国風土記に書かれてるように、オオクニヌシとアメノヒボコは兵庫県で争った。結果、但馬国に留まらせた。逆に言うとオオクニヌシは、但馬国(の一部)をアメノヒボコに奪われたんです。
播磨国風土記、私は地名から逆算して創作された逸話だと考えてます。

「アメノヒボコは剣で海水をかき混ぜて、勢いを見せた」

これ、引佐の浜で十拳の剣の切っ先で胡坐をかいた、タテミカズチの焼き回しですよ。
そしてオオクニヌシは、慌てて丘の上で食事をしたが米粒を落とした。
アメノヒボコは、播磨国にとって地元の神様ですから、オオクニヌシをdisるのは当然。しかしながら、何らかのイベント(出来事)を反映してると思います。オオクニヌシは、アメノヒボコに但馬国の一部を奪われた。時期は国譲りの直前。
こう考えた理由は、古事記にあります。

第7代 孝霊天皇の時代、針間(播磨)を拠点として吉備の国を平定しましたね。この時、アメノヒボコと大和王権は結託して、播磨国を制圧したんです。だから播磨を拠点として、吉備国まで平定することができた。

大和王権にとって、アメノヒボコの協力は天の助け。だから稗田阿礼は、アメノヒボコ(天之日矛)と、高天原の神様と同等に扱った。しかも「日矛」。明らかに、矛という武力を意味してます。同じ矛でも、八千矛(やちほこ)に象徴される矛とは意味が違う。
こう考えると何故、応神天皇の項にアメノヒボコの昔話が語られているのかが分かります。

大和王権が出雲国を滅ぼしたことは、遺跡から分かってます。その直前、但馬国のアメノヒボコと結託して播磨国を制圧、さらに吉備国まで制圧した。
こんなこと、国譲り神話の過程で書けるわけありません。国譲りはあくまでも、(大和王権ではなく)アマテラスに対して行われたという設定なのですから。
このため後日譚として、応神天皇の項にアメノヒボコ神話が書き込まれた。後日譚を記載する箇所として何故、応神天皇が選ばれたのかは後回し。
それより、話をややこしくしているのが日本書紀。繰り返しますが日本書紀には、

「第11代 垂仁天皇の時代に、アメノヒボコがやって来た」

と書かれてます。何故、垂仁天皇の時代が選ばれたのか?
理由は多遅麻毛理(タジマモリ)でしょう。
古事記には、アメノヒボコの子孫に多遅麻毛理(タジマモリ)が生まれたと書かれてます。
詳細は省きましたが垂仁天皇の時代、多遅魔毛理(タジマモリ)を常世国に行かせて、不老不死の「時じくの香しい木の実」を探させる話がありましたね。日本書紀は、田道間守(タジマモリ)と書かれてます。

つまり、古事記に書かれている「その昔」というのは垂仁天皇の時代だったと、舎人親王は解釈しました。が、これは古事記を理解してない舎人親王の間違い。

舎人親王、役人に言われたことを鵜呑みにしちゃダメですよ。アメノヒボコの物語は神話。この部分に関しては、人代記に主眼を置いた日本書紀は信頼できない。

古事記と日本書紀、共にタジマモリはアメノヒボコの「玄孫(やしゃご)」と書かれてます。
自分 → 子 → 孫 → ひ孫 → 玄孫と、4親等離れたご先祖様です。これではタジマモリの4代前のご先祖様アメノヒボコが、第11代 垂仁天皇に仕えることはできない。アメノヒボコは、もっと前にやって来た帰化人です。
私は、第7代 孝霊天皇の時代、「欠史八代の時代」と解釈しました。
さらに日本書紀には、

アメノヒボコは、はじめ播磨国に停泊していた。垂仁天皇は播磨国にアメノヒボコの居住を許したが、ヒボコは、

「諸国を廻って適地を探したい」

と願ったので、これも許可した。アメノヒボコは諸国を巡り、但馬国に居住した。

全く逆のことが書かれてます。

「アメノヒボコは妻を追ってきますが、『渡りの神』に阻まれました。
仕方なく戻って但馬国に着き、そこに留まりました」

古事記のこの部分を舎人親王は、播磨国から但馬国に移動したと解釈したのでしょう。
そもそも古事記には、アメノヒボコが天皇と出会ったとは一言も書かれてません。

さて、古事記を調べるのはここまで。機会があれば、またあとで触れます。それより天皇は、「オオクニヌシの祟りを畏れた」と考察しましたね。これを検証してみましょう。

出雲大社

ご存知の通りオオクニヌシ、大国主命は出雲大社に鎮座しています。平安時代の出雲大社は、高さが48mもあったらしい。その1/10の復元模型がこれ。古代出雲歴史博物館に展示されてます。

口遊(くちずさみ)
平安時代、貴族の子供たちの教科書として用いられたと言われるもの。「大屋(大きい建物)」のベスト3として、「雲太(大社の本殿)」、「和二(東大寺の大仏殿)」、「京三(平安京の大極殿)」と記してあります。

雲太、和二、京三
平安時代中期(970年)に書かれた「口遊」には、当時の大きな建物として、雲太、和二、京三が挙げられています。当時、大仏殿の高さは15丈(約45m)あったとされます。出雲大社は、それ以上の高さを誇ったのでしょうか。伝承では、かつては16丈(約48m)の高さがあったともいい、古代に巨大な神殿が存在した根拠の1つとされています。
(ガイドブックより)

木造建築で48mもの高層建築が可能だったかどうか、意見が分かれてます。が、とりあえずは物的証拠も発見されてます。

巨大柱の顕現
2000年から2001年にかけて、出雲大社境内から13世紀前半ごろ(鎌倉時代)の巨大な柱が3カ所で発見されました。1本の直径が約1.35mのスギ材を3本組にしたもので、さしわたし約3mもあります。柱の配置や構造は、いにしえの巨大本殿設計図とされる、「金輪御造営差図(かなわのごぞうぞうえいさしず)」に描かれたものとよく似てます。柱を埋めた大きな穴には、ひとかかえもあるような大きな石がぎっしりと詰めてありました。このような堀立柱の地下構造は、史上最大で世界に例を見ないものです。

1248 (宝治2) 年の本殿遺構
心御柱(しんのみはしら)の下に置かれていた板材の年輪や柱材の放射性炭素同位対比による化学分析と、考古学による土器の年代、文献上の造営記録などを総合すると、1248(宝治2)年に造営された本殿跡の可能性が高いと思われます。当時、異例の規模を誇る壮大な神殿が、この地にそびえていたのでしょうか。考古学、歴史学、建築学の分野において、大きな論争を巻き起こしてます。
(ガイドブックより)

この時発見された「宇豆柱(うずばしら)」が、ご覧のように古代出雲歴史博物館に展示されてます。
心御柱(しんのみはしら)は、出雲大社の宝物殿に展示されてますが写真撮影不可。

「とりあえずは物的証拠も発見された」と言った通り、これは鎌倉時代の遺跡。これを基に復元された神殿がこれ。48mの復元模型もありますが、それ以下の高さだったという模型もありますね。
平安時代の48mの遺跡は、発見されてません。そもそも、そんな巨大木造建築が可能なのか?
大林組のHPに答えがありました。

「古代出雲大社本殿の復元」

という本が出版されてます。ネットで、その本のダイジェスト版も閲覧できます。大林組プロジェクトチームが検証した結果、高さ48mの楽しい木造建築は可能。
平安時代、48mの神殿が本当にあったようです。でなければ貴族の子供たちの教科書に、「雲太、和二、京三」と書けない。
ちなみにこれは、「出雲太郎、大和二郎、京三郎」の略です。
これ、とんでもない事ですよ。例えば戦国時代、織田信長が武田家を滅ぼした時、

「敵ながら、あっぱれ!」

と、安土城より高くて立派な日本一の武田城を甲斐の地に自費で建ててやるようなもの。
そんなことが平安時代、実際に起こったんです。いやほんと、マジで信じられない。
何故そんなことが起こったのか?
オオクニヌシの祟りを畏れたためでしょう。

「私の住む所は地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く神殿を造って治めて頂ければ、私は『百不足八十坰手』に隠れましょう」

平安時代、その通りの出雲大社が建造されたんです。

本殿内部構造

これは昔話ではありません。現在進行形の出雲大社。本殿の内部構造は、こうなってます。パワポ(PowerPoint)で、忠実にトレースしました。
私は中学生か高校生の頃、何かの本でこの図を見たことがあります。
「男の隠れ家」と言うんでしょうか。私は子供の頃から押入れの奥など、狭い場所が大好きでした。今でも狭いビジネスホテルに泊まった時、

「明日の朝食バイキングに命をかけるぞ!」

と、ワクワクします。
子供の頃、出雲大社本殿の内部構造図を見た時、

「出雲大社、秘密基地みたいでカッコいい!」

と、思ったものです。
大人になった今、これを見直すと、本当の意味が分かりました。

これ、牢屋ですよ!
オオクニヌシを牢屋の奥に閉じ込めて、扉を閉めて「御客座五神」が監視しています。

「出雲大社に、お客様として座している5人の神様」、

天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)
高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)
神産巣日神(カミムスヒノカミ)
宇摩志阿斯訶備比古遲神 (ウマシアシカビヒコチノカミ)
天之常立神(アメノトコタチノカミ)

5神そろって、別天津神(コトアマツカミ)!
さあ、出てきました。天地創造で始まった古事記。最初に現れた5人の神様が、オオクニヌシが脱獄しないか、監視してます。
出雲大社が修造された最古の記録は659年(日本書記より)。
古事記が書かれた半世紀以上前に、出雲大社が修造されてました。本当に、思わぬところで古事記の伏線が回収されました。
仮に659年から大社の内部構造がこうだったとすると、古事記の別天津神は、出雲大社の御客座五神から引用したことになりますね。

イザナギでもない、イザナミでもない、ましてやアマテラスでもない。天地創造時に現れた、ナンバー1からナンバー5の神様が5人がかりで、オオクニヌシが脱獄しないか監視してます。

どれだけオオクニヌシの祟りを畏れてるんだ?
出雲国を滅ぼしたとしても、ここまで畏れるか?
ヤマトタケルが熊襲や蝦夷を滅ぼしたとしても、大和王権は、これらの国々を畏れてないじゃあないか。
出雲国を滅ぼした以上の「何か」を畏れているような気がしてきました。

繰り返しますが、これは現在進行中の話です。ご存知の方も多いでしょうが、大国主命は西の引佐の浜を向いて鎮座しています。つまり参拝客に対して、横を向いている。しかも「板仕切」に閉ざされて。

参拝客の方を向いているのは、今でも御客座五神、別天津神。「別にやることがある天つ神」です。出雲大社本殿を参拝する人は、大国主命を参拝してるつもりなのに、これでは御客座五神を参拝してることになりますね。
横を向いてるオオクニヌシには、本殿西から参拝しなければならない。このため、本殿西にも小さな賽銭箱が置かれてます。
それでは本殿西から参拝しなければ、オオクニヌシを参拝したことにならない?

ご心配なく。出雲大社の鳥居をくぐると、すぐに目に入るのは「拝殿」。「本殿」ではありません。大社を訪れた多くの方は、拝殿で参拝されてます。拝殿に「2礼4拍手1礼」すれば、大国主命を参拝したことになります。

「平成の大遷宮」というのがあって、2008年から2016年にかけて、本殿や境内の社殿はリフォームされました。出雲大社は、60~70年くらいの間隔でリフォームされるようです。
ちなみにアマテラスの伊勢神宮は、20年ごとに建て替えられてますね。

平成の大遷宮は、宝物殿の改修や庁舎の建て替え等、2019年まで続きました。特に2008年から2013年にかけて、本殿改修のため、オオクニヌシのご神体は拝殿に鎮座していました。ここからも拝殿を参拝すれば、大国主命を参拝したことになることが分かります。
ところで平成の大遷宮。本殿の改修工事を行ってた頃、何かで見たか、読んだかした記憶があります。

本殿中心の「心御柱(しんのみはしら)」は、大黒柱になってないことを。

本殿天井の構造がどうなってるか知りませんが、この程度の木造建築なら、天井をトラス構造(三角形を基本単位として構成する構造)にすれば、中心に柱が無くても十分強度を確保できる。
しかしながら平安時代や鎌倉時代の高層建築では、心御柱は絶対に大黒柱だったはず。本殿の荷重は、その中心の柱にもっとも圧力をかけます。心御柱が無ければ、あのような高層建築は不可能。

心御柱は、今は本殿の荷重を支えてないのか…
本殿を支えるため、前後の宇豆柱に梁(はり)を渡しているはず。心御柱は、梁に接合されてるんだろうなあ。
こんなことを考えながら、出雲大社本殿の内部構造図を眺めてました…

!!
わずかに心御柱が、本殿中心から左にずれている!
これ、私のトレースミスではありません。出雲大社内部構造を記した図をネットで検索して、3種見つけました。そのうち2つ、心御柱が中心からわずかに左にずれている。

(1) 心御柱は、現在でも本殿中心に存在する
(2) 心御柱は、現在では本殿中心から左にずれている

どっちが正解でしょう?
正解は(2)。ソースは出雲大社。「平成の大遷宮」に伴い2008年、約60年ぶりに本殿の特別拝観が行われました。特別に本殿内部が一般公開された訳です。
その時、「特別拝観のしおり」が配布されました。しおりには、出雲大社の内部構造が描かれてますが、やはり心御柱は本殿中心から左にずれています。
「出雲大社 特別拝観のしおり」で、画像検索してみてください。(2)が正解だと、出雲大社が宣言していることが分かりますから。

心御柱を左にずらすとどうなるか?
オオクニヌシをより牢屋の奥に閉じ込めることができる。そして、板仕切を広くして参拝者から、より多くオオクニヌシを隠すことができます。

誰がいつ、心御柱を左にずらした?
楽しくなってきました。シャーロック・ホームズ好きの血が騒ぐぜ!