国譲りの成立

この後、オオクニヌシは料理を出して、タテミカズチを接待します。
ダイジェストで書くと、

(1) 出雲の多芸志(たきし)の小浜に御殿を設けた。
(2) 櫛八玉神(クシヤタマノカミ)を料理人とし、そこで宴会を開いた。
(3) クシヤタマノカミは海底に潜って土を取り、それを基に食器を作った。
(4) 海藻を刈って、それで火を焚いた。
(5) 火は高天原のタカミムスヒに煤(すす)が届くまで焼き上げる。
(6) 地底の大岩まで焼ける火を焼く。
(7) それで、漁夫に釣らせた鱸(すずき)をたくさん焼いた。
(8) そして、天の魚(原文:天之眞魚)を奉げた。

ダイジェストにしても細かすぎ!
なんか変です。あまりにも細かく書かれ過ぎてます。ちなみにこの部分、先に紹介した古事記の原文写真に一部が写ってますので、ご参照ください。

はじめは国譲りが平穏無事に行われた。従ってオオクニヌシがタテミカズチをもてなした。国譲りの正当性を強調するために、接待が行われたことを細かく描写したと解釈しました。
が、以下のことに気づき、考え直しました。

「高天原のタカミムスヒに煤が届くほど、地底の大岩が焼けるほど火を焚く」
「地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く壮大な神殿を造れ!」

何か似てませんか?
いや、むしろ逆。こんな火を焚くと、

「地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く壮大な神殿」

は、燃え崩れてしまいます。
そしてオオクニヌシは、タカミムスヒに煤を届けた。
思い出してください。タテミカズチは、オオクニヌシに言いました。

「アマテラスとタカギノカミから授かった、詔(みことのり)を伝える」

タカギノカミはタカミムスヒの別名でしたね。タテミカズチは、

「アマテラスとタカミムスヒから授かった、詔(みことのり)を伝える」

とは言ってません。
しかしながらオオクニヌシは、(タカギノカミではなく)タカミムスヒに対して、

「あンた、背中が煤けてるぜ」

と返してます。さらにタカギノカミことタカミムスヒは、国譲りには関わってない。
これ、呪いの宴会ですよ。ひょっとしてオオクニヌシは、

「地底の岩に巨大な宮柱を撃ち込み、高天原まで届く壮大な神殿」

に火をつけて燃やして隠れた!?
とにかくタテミカズチは高天原に戻り、葦原の中国と「和平」が成立したことを報告、国譲りは終了します。
原文に、はっきり「和平」と書かれてます。
まとめると、

アマテラスが「その国譲れ」と言った。
オオクニヌシは、アマテラスの要求に応じた。
結果、高天原と葦原の中国に和平が成立した。

話の筋は通ってます。
が、私は要求に応じたオオクニヌシの態度に、違和感(=呪い)を感じました。

さて、出雲神話はここで終了。
古事記は「天孫降臨編」に移りますが、その前に、国譲りの物的証拠を検証してみましょう。

弥生時代/古墳時代の遺跡群

歴史教科書:
まず、歴史教科書を確認しましょう。
今更ですが、弥生時代の後は古墳時代が始まります。

古代国家は、どこでもたいてい王の巨大な墳墓を残す。日本列島でも3世紀以降、最初は近畿地方や瀬戸内海沿岸に、やがて広い地域にまるで小山のように盛り上がった、方形(四角のこと)と円形を組み合わせた古墳が数多く造られた。これを前方後円墳という。
(中略)

葬られているのは、主に地域の支配者であった豪族たちである。大和(奈良県)や河内(大阪府)には、ひときわ巨大な古墳が多かった。この地域の豪族たちが連合して統一権力を起ち上げたためと考えられ、これは大和朝廷と呼ばれている。

地方の豪族たちの上に立つ大王(おおきみ)の古墳は、ひときわ巨大であった。わけても日本最大の大仙古墳(仁徳天皇陵)の底辺部は、エジプトでも最大のクフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓の底辺部よりも大きかった。古墳は3世紀ごろに造営が始まり、7世紀ごろまで造られた。

古墳時代のはじまりは、3世紀(西暦200年代)だったことが分りますね。
次に、遺跡群を見てみましょう。

神原神社古墳:
神原神社(かんばらじんじゃ)は、島根県雲南市加茂町にある神社です。昔は古墳の上にありました。この古墳は縦横30m弱の方墳(長方形の古墳)で、島根県では最古に属する4世紀中ごろの前期古墳です。

竪穴式石室から、魏の「景初三年(西暦239年)」という碑文が刻まれた銅鏡が出土しました。これを「三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)」と言います。
銅鏡は、古代出雲歴史博物館で見学可能。

魏志倭人伝によると西暦239年、邪馬台国の女王「卑弥呼」が「魏」に使いを送り、銅鏡100枚を下賜(かし)したらしい。
神原神社古墳から出土した三角縁神獣鏡が、卑弥呼が下賜したものかどうかは、意見が分かれてるようです。が、本物かレプリカなのかはどうでもいい。大事なのは「景初三年」という碑文が刻まれていたこと。

魏の年号は信用できます。何と言っても、三国志の一角を占めた国の年号なのですから。そのうち魏志倭人伝も、調べてみなければいかんなあ。
ところで、出土したのは銅鏡だけではありません。

棺の中には、被葬者に副えて多くの鉄製品が納められていたのです。主なものとして、大刀、鉄剣、鉄鏃などの武器や、鏨(たがね)、錐(きり)、鎌、鋤先(すきさき)といった農工具類があげられます。このうち、とても興味深い副葬品に鉄鏃(てつぞく:鉄製のやじり)があります。出土したほとんどの鉄鏃は、鑿頭式(さくとうしき)とよばれる、先端が鑿のように水平になった鉄鏃でした。調査の結果、この鉄鏃は地元ではなく畿内で製作され、神原に持ち込まれたらしいことが分かったのです。
(島根県雲南市役所HPより)

下線は私が追加しました。
近畿地方の文化が、遅くとも4世紀には出雲地方に入っていたことが分ります。

古志本郷遺跡:

古墳時代が始まると、それまで地域色があった土器は近畿地方の土器の影響を受けて、全国的に似通ったデザインになっていきます。山陰地方でも近畿地方の影響を受けますが、比較的遅くまで地域色を残しています。
(ガイドブックより)

古代出雲歴史博物館には、出雲市の古志本郷遺跡(こしほんごういせき)から出土した、4世紀の土器が展示されています。この遺跡からも、出雲地方に近畿地方の文化が入ってきたことが分かりますね。

四隅突出型墳丘群:

1世紀(弥生時代後期)になると、山陰地方は他の地域よりも早く、青銅器のまつりを行わなくなります。その後しばらくして、各地の王(首長)を埋葬するための墳墓が大型になっていることから、王の権力が強くなったと考えられます。弥生時代の墓は、地域ごとに特色ある形をしています。山陰地方では、四隅が突き出た「四隅突出型墳丘墓(よすみとっしゅつがたふんきゅうぼ)」が造られました。

西谷3号墓は、出雲平野を代表する大型の四隅突出型墳丘です。岡山・丹後・北陸系の土器や、中国産の水銀朱、大陸産のガラス玉が出土するなど、各地との交易を行っていた首長が葬られていたものと考えられます。墳丘の裾(すそ)には2重に敷石、立石がめぐり、墳丘斜面は貼石(はりいし)で覆われています。

島根では2世紀後半には、一辺が50mもある巨大な四隅突出型墳丘墓が造られるようになります。この時期に造られた墳墓の中では岡山県の楯築(たてつき)墳丘墓の次に大きい、国内でも最大級のものです。大陸や朝鮮半島から運ばれる鉄や、先進的な品々の流通をおさえた各地の王(首長)の権力がピークに達したことを反映しています。

以上、ガイドブックより引用しました。
さらに鳥取県埋蔵文化財センターのパンフレットに、墳丘が造られた時期とエリアが掲載されています。

現在の島根県、鳥取県、福井県、石川県、富山県、広島県、岡山県、兵庫県にわたって、墳丘が存在します。
パンフレットには、以下のように解説されています。

四隅突出型墳丘墓の変遷[模式図]
時期のⅣは弥生時代中期の後半、Ⅴは弥生時代後期を示します。Ⅴ期の1~4は後期を四段階に区分したもので、1が最も古く4が最も新しい時期を示します(一覧表の時期も同じです)。Ⅴ期に続く時期は古墳時代になり、四隅突出型墳丘墓は造られなくなります。

最後の1文にご注目。

「Ⅴ期に続く時期は古墳時代になり、四隅突出型墳丘墓は造られなくなります」

古墳時代に入ると、四隅突出型墳丘墓は造られなくなったわけ。
これは弥生時代から古墳時代に、一気に移行したことを示しています。縄文時代が、だんだんと弥生時代に移行したのとは異なります。
時代が一気に変わるためには、それなりのイベント(出来事)が必要。例えば平安京への遷都、鎌倉幕府の成立、室町幕府の成立、織田信長の天下統一、徳川幕府の成立、大政奉還など。

弥生時代から古墳時代に移行したイベントは何でしょう?
もちろん、オオクニヌシの国譲りです。
そして、譲られたのは古代大和朝廷(大和王権と呼ぶべきか)だったことを遺跡が語ってます。
その時期は、歴史教科書や遺跡から判断して、ズバリ西暦250年。プラスマイナス10年の誤差を見ておけばいいでしょう。
個人的には、墳丘が造られなくなった時期から判断して、西暦250~260年のどこかだったと考えてます。

長野県の古墳群:
長野県松本市立考古博物館に、興味深い図が展示されています。
ネットで拾った図がこれ。

諏訪湖は、タテミナカタが留まった地でしたね。その諏訪の地から、 越の国/美濃の国への出入り口を古墳群が塞いでるように見えませんか?
私には古墳時代、諏訪湖周辺に何かを閉じ込めていたように見えます。

ちなみに諏訪湖周辺からは、縄文時代の遺跡が数多く発見されますね。そんな諏訪湖畔にタテミナカタ、つまり弥生時代に繁栄した出雲の神が留まった。
何か意味深です。

古墳の副葬品:
古墳で思い出したのが副葬品。あなたも学校で習ったように、古墳からは棺に納められた人の装身具や銅鏡、鉄剣や甲冑、馬具、勾玉、土器、埴輪などが出土されます。
これで1つ、気づいたことがあります。
荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡から発見された、銅剣/銅矛/銅鐸は、古墳からは出土しません。

ちなみに四隅突出型墳丘からは、土器や石杵(石のきね)、中国産の水銀朱、ガラス玉などが出土しています。墳丘からも銅剣/銅矛/銅鐸は出土していませんが、これは当たり前の話。

「1世紀(弥生時代後期)になると、山陰地方は他の地域よりも早く、青銅器のまつりを行わなくなります。その後しばらくして、各地の王(首長)を埋葬するための墳墓が大型になっていることから、王の権力が強くなったと考えられます」

とガイドブックに書かれてましたね。
墳丘/古墳から出土した青銅器は銅鏡のみ。しかも銅鏡は、墳丘からは出土してない。つまり、弥生時代後期「青銅器のまつりを行わなくなり、墳丘が造られるようになった」のに、銅鏡という青銅器が古墳から出土してるんです。
明らかに弥生時代の権力者と古墳時代の権力者は、異なる文化を有してます。古墳からは(近畿地方から出土される)銅鐸ではなく、銅鏡が出土しているのですから。

青谷上寺地遺跡

最後に青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡。
この遺跡に触れる必要は無いと思ったんですけど、「弥生の地下博物館」と言われてるので、見ておきましょう。
この遺跡、かなり特殊なんです。例によって道路工事の途中、偶然発見されました。
以降、青谷上寺地遺跡展示館のHPをダイジェストで参照します。

青谷上寺地遺跡は、鳥取県鳥取市青谷町の西側を流れる勝部川と東側を流れる日置川の合流点南側にあたり、日本海にほど近い平野部に位置しています。

かつての青谷平野は潟湖(ラグーン)が広がっており、そのほとりの低湿地帯に約2200年前より集落がつくられるようになります。そして1700年前の古墳時代前期に急速に衰退するまでの約500年間、この地を生活の場としていました。

集落の中心域のまわりを排水用の大きな溝で囲んでおり、溝は徐々に東側に拡張していきます。この溝は大きな板や多数の矢板を打ち込む、大規模な護岸工事が行われています。東側の溝からは100体をこえる人骨が発見されました。西側の溝では、お祭りの場が見つかっています。集落中心域の内部には、土壙(どこう)と呼ばれる用途不明の穴や、建物の柱跡となる穴があります。

出土品には多量の土器や石器をはじめ、精巧な木製容器、農工・漁撈具、鉄製工具などの多種多様なものが見られます。遺跡が低湿地にあり、水分を大量に含んだ土の中で、遺物が真空パックされたような状態で眠っていたため、その残り具合はたいへん良く、当時どのように使われていたかを知る上でも、きわめて貴重な資料といえます。

海と山に囲まれた青谷上寺地遺跡では、稲作だけではなく漁撈や狩猟を盛んに行って、生活のかてを手に入れていたことが分かります。それは多くの農工具や漁撈具、獣骨、貝塚などが物語っています。

さらに青谷上寺地に暮らした弥生人は、他の地域の人々と盛んに交流をしていました。北陸・近畿・山陽地方の土器が出土しています。石材も青谷周辺では採れないヒスイやサヌカイトなども使われています。

500点をこえる鉄製品は、中国・朝鮮半島・北部九州の特徴を持ったものが見られます。また、古代中国の鏡やお金「貸泉(かせん)」も出土しています。これらの遺物から、日本海を舞台とした交易や、中国山脈をこえた交流などが行われていたことが推測できます。また、北陸・島根からは、青谷上寺地との技術的な交流をうかがわせる花弁高杯が見つかっています。

青谷上寺地遺跡は日本海側に点在する潟湖(ラグーン)のほとりに位置し、天然の良港として漁撈活動や対外交易を行い、航海技術に長けた人々が住んでいたと考えられています。この航海技術をもとに、海を介した他地域との交流を盛んに行う中で、モノや技術などが行き交う「港湾拠点」として機能したと推測されます。

集落中心域の東側からは約5300点、人数にして約109体分の人骨が見つかっており、時代も弥生時代後期(約1800年前)のものです。このうち110点、人数にして10数人分の人骨には殺傷痕があり、何らかの争いがあったことが考えられます。また、日本最古の結核の症例となる、脊椎カリエスも確認されました。

さらに驚くことに、日本最古となる弥生人の脳3点が奇跡的に見つかりました。世界でもわずか6例しかないもので、世界的にも貴重な資料といえます。

青谷上寺地遺跡は弥生時代の人々の生活だけではなく、技術のすばらしさ、人骨や脳が残存していたことなど、様々な分野で注目を浴びる遺跡だといえます。

下線は私が追加しました。下線部をまとめると、

(1) 古墳時代前期(3世紀後半)に急速に衰退した
(2) 大規模な護岸工事が行われていた
(3) 航海技術に長けた人々が住んでいて、中国・朝鮮半島・北部九州・北陸・近畿・山陽と交流を持っていた
(4) 109体の人骨が見つかり、その内10数人分の人骨には殺傷痕があった。時代は弥生時代後期

私的には、(1)と(2)で十分です。
(1)から大和王権の介入があったことは明らかですし、(2)からオオクニヌシの介入があったことも想像できます。
気になるのは(4)。殺傷痕は気になりますね。実際に見てみましょう。

何でしょう、これ?
発掘された人骨が生きていた時代は弥生時代後半。つまり2世紀後半。
はじめはオオクニヌシの国譲りに関係していると思ったのですが、時代が合わない。国譲りは他の遺跡から、3世紀 (西暦250年頃)だったことは分かってます。
青谷上寺地遺跡から、「倭国大乱(わこくたいらん)」の証拠と考える研究者も少なくないようです。
倭国大乱とは2世紀後半、倭国で起こったとされる争乱のこと。後述しますが、魏志倭人伝や後漢書東夷伝に記載されてます。

前述のように私は、この集落が古墳時代初期、急速に衰退した(=滅んだ)ことが分かっただけでOKなんですけど、あなたは気になりますよね。
そこで本遺跡の詳細資料、奈良文化財研究所のHPにある「青谷上寺地遺跡4」という調査報告書を、ロンドンのベーカー街221番地Bに送っておきました。
後は、シャーロック・ホームズに推理してもらいましょう。