正解は、もちろん(父)。
「父」と入らなかったら、頭を白い紙にできてない証拠。比売大神という「予断」に惑わされたんです。
ここから逆に考えてみましょう。
「何故、父親として比売大神(宗像三女神)が祀られているのか?」
応神天皇の父親は、海北道中を渡ってやって来たからです。あるいは古事記の記述から、神功皇后が海北道中を渡った先で身ごもったのかもしれませんが、(皇后が危険な海を渡ることは考えにくいので)その可能性は低い。そこは何処か?
間違いなく百済でしょう。
古事記の中巻ラスト、応神天皇の項に、こんな記述があります。
| 百済の国主、照古王(しょうこおう)は、牡馬一匹、牝馬一匹を阿知吉師(あちきし)に付けて奉りました。太刀と大鏡も奉りました。応神天皇は言います。
「百済国に若くて賢い人がいれば、連れてきて欲しい」 今度は和邇吉師(ワニキシ)という人が、論語10巻、千字文(漢字テキスト)1巻、合計11巻を持って奉りました。 「石が動いた!」 と、言いだす始末。 |
番外編として新羅の皇子、天之日矛(アメノヒボコ)神話が語られているのは、この後。朝鮮半島との交流を描く場所は、ここしかないでしょう。
とにかく応神天皇は、百済から朝貢を受けてた訳です。応神天皇は何故、百済と太いパイプを持っていたのか?
父親が百済人だったからでしょう。初代神武天皇には母系に弁韓の血が入ってましたが、応神天皇には父系に百済の血が入っている。
応神天皇は、4世紀末から5世紀初頭に実在した可能性の高い天皇です。
古事記によると、馬や漢字、論語(中国の思想)、鍛冶(製鉄技術)、呉の織子(呉服)などを輸入してますね。
おそらく応神天皇の時代、多くの百済人が帰化したのでしょう。日本の人口が増加するくらい、大勢の百済人が様々な大陸の技術を持って渡来した。特に馬。古事記によると、馬が日本に入ってきたのも、応神天皇の時代です。
これ、大変なことですよ。それまで徒歩でしか行けなかった地に、馬で行けるようになったんです。
まさに、古代の産業革命!
結果、天皇の権力は急激に強くなった。古墳が応神天皇の権力を証明しています。
古墳の大きさベスト3
| 順位 | 古墳名 | 大きさ(m) | 比定天皇 |
| 1 | 大山古墳 | 486 | 第16代 仁徳天皇 |
| 2 | 誉田御廟山古墳 | 425 | 第15代 応神天皇 |
| 3 | 石津ヶ丘古墳 | 365 | 第17代 履中天皇 |
第15代 応神天皇以降、古墳の大きさが急激に大きくなります。古墳の大きさは権力の大きさに比例することは、クフ王のピラミッドや秦の始皇帝の墳墓からも明らか。応神天皇以降、天皇の権力が大きくなったことが古墳から分かります。
でも、変だと思いませんか?
古墳時代が始まって、それまでの王墓だった「墳丘」は造られなくなりましたね。
「異文化が支配すると、必ず異文化の特性が現れる」
弥生時代の出雲国と大和王権とは、異文化(=異民族)です。だから墳丘ではなく、古墳が造られるようになった。百済の血が入った応神天皇は、これまでにない「権力」を手に入れたのですよ。私が応神天皇の立場だったら、
「これからは、わたしが支配者だ。
わたしが日本を征服する。
今までの古墳など、捨ててしまえ!
百済らしい、新しい墓を造るのだ」
ショッカーの首領と同じことを考えます。ところが現実は、古墳の規模が大きくなっただけ。神武天皇以来続く古墳文化は、そのまま継続します。
おそらくこれが神功皇后の功績でしょう。神功皇后は、神武天皇が建国した大和王権の皇后だった。なんだかんだ言っても第14代 仲哀天皇の皇后だった。息子の応神天皇に、例え血統は違っても、神武天皇から続く文化を引き継がせた。だから古墳時代は継続、天皇の権力(=古墳の規模)が大きくなっただけだった。これを稗田阿礼は、
「天照大神の御心」
と表現して、倭国が継続した歴史を書き残した。
こう考えると仲哀天皇殺しの黒幕、ショッカー首領の正体が見えてきますね。暗闇殺人事件、結果から見ると、黒幕の容疑者は応神天皇の父。
百済人である応神天皇の父は日本制服をたくらみ、神功皇后を取り込んだ。そして仲哀天皇を殺害した。
が、あくまでも容疑者。犯人ではありません。真犯人はズバリ、
分かりません!
これも稗田阿礼の創作でした。なして、もうちょい早う気づかんかったかねえ。