前述のように道鏡という僧侶は、自らが天皇になろうとしてました。このような「大国主の祟り」を防いだのが宇佐八幡宮の神託。標題の通り、「宇佐八幡宮神託事件」と呼ばれてます。以降、ウィキペディアから抜粋して説明します。
| 弓削道鏡(ゆげのどうきょう)は、孝謙(こうけん)上皇の病を治したことから、その信頼を得て出世した。天平宝字8年(764年)、孝謙上皇と対立した最高実力者、藤原仲麻呂が反乱を起こした(藤原仲麻呂の乱)。上皇は仲麻呂の専制に不満を持つ貴族たちを結集して、仲麻呂を滅ぼした。乱後、上皇は仲麻呂の推挙で天皇に立てられた淳仁(じゅんにん)天皇を武力をもって廃位して淡路国に流刑にすると、自らが天皇に復位することを宣言した。
復位した称徳(しょうとく)天皇のもとで道鏡はその片腕となり、天平神護元年(765年)には僧籍のまま太政大臣となり、翌2年(766年)には「法王」となる。こうして称徳天皇の寵愛を一身に受けた道鏡は、政治にしばしば介入した。 だが反仲麻呂派の貴族の大勢は、あくまでも仲麻呂の政界からの排除のために上皇に協力しただけであり、孝謙上皇の復位や道鏡の政界進出に賛同したわけではなかった。 神護景雲3年(769年)5月、道鏡の弟で大宰帥の弓削浄人と大宰主神の習宜阿曾麻呂が、 「道鏡を皇位につかせたならば、天下は泰平である」 という内容の宇佐八幡宮の神託を奏上し、道鏡は自ら皇位に就くことを望む。称徳天皇は宇佐八幡から法均(和気広虫:わけのひろむし)の派遣を求められ、虚弱な法均に長旅は堪えられぬとして、弟である和気清麻呂(わけのきよまろ)を派遣した。 清麻呂は天皇の勅使として8月に宇佐神宮に参宮。宝物を奉り、宣命(せんみょう:天皇の宣言文)を読もうとした時、神が禰宜(ねぎ:宮司の補佐をする人)の辛嶋勝与曽女(からしまのすぐりよそめ)に託宣、宣命を訊くことを拒む。清麻呂は不審を抱き、改めて与曽女に宣命を訊くことを願い出る。与曽女が再び神に顕現を願うと身の丈三丈、およそ9mの僧形の大神が出現。大神は再度宣命を訊くことを拒むが清麻呂は、 「わが国は開闢このかた、君臣のこと定まれり。臣をもて君とする、いまだこれあらず。天つ日嗣(あまつひつぎ:皇位継承のこと)は、必ず皇緒を立てよ。無道の人はよろしく早く掃除すべし」 という大神の神託を大和に持ち帰り奏上する。 |
細かい部分はカットしたり、注釈や下線を追加したり私が編集してますが、ウィキペディアにはこう書かれてます。
何か、変じゃないですか?
要約してみましょう。
(1) 道鏡は宇佐八幡宮の神託を奏上し、自ら皇位に就くことを望んだ
(2) 宇佐八幡宮は、法均の派遣を要求した
(3) 法均の弟、和気清麻呂が宇佐八幡宮に派遣された
(4) 宮司の補佐をする人が、和気清麻呂の宣命を拒んだ
(5) 和気清麻呂は「開闢以来の天皇の血を絶やしてはならない」と、神託を受けた
(6) 道鏡を天皇に就けたがっていた称徳天皇は清麻呂を左遷、「次期皇位継承者は自分が決める」と宣言した
結果、道鏡が皇位に就くことはありませんでした。
称徳天皇は、道鏡を次期天皇に就かせようとしてました。だから、自分の意向に反する神託を受けた和気清麻呂を左遷した。称徳天皇は、神託に反してでも道鏡を天皇に就かせたかったはずです。ところが、
「みだりに皇位を求めてはならない事、次期皇位継承者は聖武天皇の意向によって自らが決める」
要するに、「道鏡は天皇としない」と宣言した。和気清麻呂が持ち帰った神託通りの結果になってます。それでは何故、和気清麻呂は左遷された?
称徳天皇は、いつどこで心変わりした?
その他「宣命」、天皇の宣言文は何だったとか、宇佐八幡宮に僧形の大神が出現したとか、仏教と神道がごっちゃになったりして、いろいろ変ですが、一番のツッコミどころは、
何故、宇佐八幡宮の宮司が出てこない?
神託は禰宜(ねぎ)という、宮司の補佐官が仕切ってます。事は、補佐官が決められる問題ではない。天皇家の存続が神託にかかってるんですよ。そこに何故、宇佐八幡宮の宮司が出てこない?
「逆に考えるんだ。全ては宇佐八幡宮の宮司のシナリオだったとね」
またまた5ちゃんを通じて、神託を受けました。宇佐八幡宮とは何か、そもそも皇位継承に何故、宇佐八幡宮が絡んでくるのか、根本を調べる必要があります。