そして魏志倭人伝には、邪馬台国は狗奴国と対立したとありました。
| 247年、卑弥呼は魏の太守(たいしゅ:長官のこと)に使者を派遣して、狗奴国との戦いを報告した。太守は張政(ちょうせい)らを倭国に派遣した。 (ウィキペディアより抜粋) |
南九州の狗奴国が、卑弥呼に宣戦布告したのでしょう。このことを卑弥呼は、魏の太守に報告した。それに対して太守は、張政という部下を派遣した。ということは、張政は邪馬台国の場所を知ってたことになりますね。そうでなければ、張政は倭国に派遣されることはない。
3世紀末、伝言ゲーム形式で書かれた魏志倭人伝より前、魏は邪馬台国の場所を正確に知っていた。
「南の投馬国に行くには水行二十日。南に進むと邪馬台国(邪馬壹国)に到達する。女王が都とするところで水行十日、陸行一月」
魏志倭人伝の一部を抜粋しました。ここが一番、議論が分かれている部分です。素直に読むと邪馬台国は、沖縄のはるか南に存在してたことになる。
ここから魏志倭人伝は、(対立関係にあった呉を牽制するため)同盟国である邪馬台国の場所を、わざと南にずらしたと考えられますが、私的にはどうでもいい。
西暦247年、卑弥呼は魏の太守に使者を派遣したのだから、卑弥呼の使者は北へ陸行一月、水行十日。さらに北へ水行二十日と、逆行したことになりますね。
不可能!
当時の(倭国の)船の構造と航海技術から考えて、十日も二十日も物資を載せて港に停泊せず、北へ航海することは不可能です。弥生ミュージアムにあった、魏志倭人伝の記述を思い出してください。
「倭人が中国に航海する時、常に一人(の人に)は頭(髪)を梳(くしけず)らず、しらみを(とり)去らず、衣服は垢(あか)によごれ(たままにし)、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)という。
もし旅がうまく行けば、人々は生口(どれい)・財物を与え、もし(途中で)疾病があり暴害(暴風雨などによる被害)にあえば、すなわち持衰を殺そうとする。その持衰が謹しまなかったからだというのである」
倭人が中国大陸に航海する時、肉を食べず、婦人を近づけなかったってことは、持衰は精力絶倫の体育会系男子だったことになりますね。そうでなければ、わざわざ「婦人を近づけなかった」とは書けない。
その持衰が、十日も二十日も絶食できたと思いますか?
さらに当時の準構造船で、北へ水行十日、水行二十日と、航海できたと思いますか?
魏志倭人伝に書かれている邪馬台国の場所はウソであることは、はじめから分かってました(藁)。
とにかく狗奴国との戦いを報告されて、魏の張政は倭国に派遣されました。この後、卑弥呼は亡くなりますが死因は不明。ところで狗奴国との対立。
古事記に、似たようなことが書かれてましたね。たしか南九州で、隼人族の祖先がどうしたこうしたとか…
考えるのは後にしましょう。それより倭国大乱。
| 魏志倭人伝 | :「一人の女子を共に王に立てた(原文:共立一女子爲王)」 |
| 後漢書東夷伝 | :「ここに於いて共に王に立てた(原文:於是共立爲王)」 |
「共に王に立てた」と記述されてましたね。30余りの国が、
「長年争い続けて、疲れてきたな」
「いい加減、争いは止めないか?」
「だが争いを止めるためには、どうすればいいんだ?
オレたちは、お前たちには絶対屈服しないぞ!」
「オレたちだって、お前たちなんかとは絶対…」
「まあ待て、男どうしは争うだけだ。
ここは、女性を長にしたらいいんじゃないか?」
「そんな女性がいるのか?」
「邪馬台国に、卑弥呼という女王がいる。
卑弥呼は、神の言葉を聞くことができるらしい。
彼女ならきっと、男どうしの争いを収めてくれる」
こうして、邪馬台国の卑弥呼が九州を統一しました(30余りの国が、共に卑弥呼を王に立てた)。魏志倭人伝や後漢書東夷伝の記述を見る限り、卑弥呼は自ら進んで王になったとは書かれてません。
これで気づいたのですが古事記でも、自ら進んで洞窟から出た神様はいませんでしたね。ストリップショーを見た男の神々が大騒ぎして、無理やり洞窟から引っ張り出された、女王的な神様はいましたけど…
繰り返しますが倭国大乱を終結させるため、30余りの国が共に卑弥呼を王に立てた。
卑弥呼は何故、倭国を統一できるカリスマ性を持っていたのでしょう?
単なる巫女では、倭国大乱を治めることはできない。卑弥呼だけではなく30余りの国には、他にも巫女が存在したはず。何故、卑弥呼が倭国の女王に選ばれた?
間違いなく卑弥呼は、強力な戦闘集団に護衛されていたはずです。だから卑弥呼には、30余りの国が手を出せなかった。
「まじないによって政治を行う不思議な力を持っていた」からこそ、強力な戦闘集団に護られることができた。ちなみに魏志倭人伝には、
「居處宮室 樓觀 城柵嚴設 常有人持兵守衞
(卑弥呼のいる)宮室は、楼觀/城柵をおごそかに設け、いつも人がおり、兵器を持って守衛する」
と書かれてます。邪馬台国の場所を正確に書けなかった魏志倭人伝が、よく卑弥呼の生活詳細を書けたなあ。
とにかく稗田阿礼が、この史実を知っていたとしたらどうでしょう?
稗田阿礼は、倭国大乱という男どうしの争いをストリップショーとして抽象化、スサノオを高天原から追放する神話を創作した。壬申の乱を知っていた稗田阿礼は、倭国大乱という人間の歴史を神話化した。
古事記では、ニニギノミコトの天孫降臨にお供をした(= ニニギノミコトを護衛した)五伴緒(イツノトモノオ)という神々がいましたね。イツノトモノオという5人の神様は、全てストリップショーに関わってました。しかもイツノトモノオは、ストリップショーの主催者側。ストリップを見て、
「ええど、ええど!」
と大騒ぎした観客(=八百万の神々)ではない。このように、
倭国大乱 = ストリップショー
として考えると、面白いことが分かります。古事記(神代記)の一部は、魏志倭人伝を基に創作された可能性が高い。
(1) 倭国大乱という「暗黒神話」、すなわち天岩戸隠れの時代が続いて、
(2) 30余りのクニ(男たち)が争い続けた結果、卑弥呼という女王を共に立てて、光(=平和)を取り戻した。
(3) 卑弥呼は、イツノトモノオに象徴される戦闘集団(クニ?)に護衛されていた。だから30余りのクニが卑弥呼を女王と認めた。卑弥呼が本当に「神の言葉を聞く」ことができたからこそ、強力な戦闘集団に護衛させる(操る)ことができたのだから。
そして卑弥呼は景初三年(西暦239年)、魏から銅鏡を下賜(かし)されていることから、おそらく光り輝く大きな銅鏡(=八咫の鏡)を道具として、まじない(お天気占い?)によって政を行っていた。
(4) この史実を基に稗田阿礼は、天岩戸隠れ神話と、イツノトモノオが天孫降臨のお供をする(=護衛する)という神話を創作した。理由は、邪馬台国から天皇の祖先が誕生したから。正確に言うと卑弥呼を女王と認めた、日向(南九州)の高千穂に存在した国(=邪馬台国!?)から、大王(天皇)が誕生したから。
(5) 但し、高天原からスサノオを追放する部分は史実とは無関係。倭国大乱以前に、出雲国は存在していたのだから。スサノオの追放は出雲神話に繋げるため、ストーリー上必要だった。
このように稗田阿礼は、倭国大乱とその結果からヒントを得て、天岩戸隠れ/天孫降臨神話を創作、出雲神話を2つの神話で挟み込みました。理由は前述した通り、天皇(大王)が治める前に存在した巨大な出雲国に、神話のベールをかけるため。
以上はもちろん、私の推測です。しかしながら、
「魏志倭人伝における倭国 = 九州」
として考えると、古事記との共通点が見えてくるのは間違いないでしょう。
何と言っても天孫降臨神話は、九州が舞台なのですから。
| コラム:神話 神話とはもちろん、人間が創作した物語です。当たり前の話ですが神話は、ワンちゃんや、ねこニャンには創作できない。 何故、人間は神話を創作したのか? 少なくとも日本神話は「治世」のために創作されてます。 「天皇こそ、日本を治めるのにふさわしい」 記紀には、こう書かれています。そこに「神様:GOD」が必要になるのは、当然の話。 「何故、天皇が日本を治めるのにふさわしいのか?」 それは、天皇がアマテラスと言う神様の子孫だからですよ。天皇は、普通の人間ではないのですよ。イザナギ/イザナミから生まれた人間とは違うのですよ。 そこに桃源郷とか、葦の船とか、死体を切り刻んで五穀が誕生したとか、中国大陸や東南アジアの思想が影響したことは明らか。 |
そもそも日本の正史の編纂を命じられた稗田阿礼が、魏志倭人伝を知らなかった筈がない。「日本」という呼称が生まれる前、ずっと倭国という「中国大陸に存在した国に名付けられた名称」が使用されてました。
「何故、我々の国は倭国と呼ばれるのか?」
結果、稗田阿礼は「倭」の真意に気付いた。そうでなければ、古代大和王権に遣えた巫女を「夜麻登登母母曽毘売命(大和と桃の祖の姫の命)」とは書けない。倭を大和(=大きな和)と呼んだ元祖は、稗田阿礼だったのかもしれない。
ちなみに日本書紀には、第14代 仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)の皇后、神功皇后(じんぐうこうごう)の項に、卑弥呼に関するらしい記述があります。抜粋すると、
「倭女王遣重譯貢獻:倭の女王は何度も貢物を捧げました」
要するに、倭の女王(=神功皇后)が、何度も朝貢したと書かれています。
繰り返しますが、日本書紀は外交文書。魏志倭人伝に関して触れないわけにはいかない。このため、神功皇后が選ばれた。
神功皇后は、4世紀後半から5世紀にかけて、実在した可能性の高い皇后です。古事記には(後述しますが)、中巻(第2巻)の後半に登場します。
魏志倭人伝に書かれている卑弥呼とは、時代が合わない。従って、「卑弥呼は神功皇后ではない。皇后は卑弥呼とは関係なく朝貢していた」と解釈することもできます。この場合、日本書紀には、卑弥呼に関する記述は一切無いことになりますね。
そんな日本書紀に書かれている箸墓古墳が、卑弥呼の墓だったなんて考えること自体が不自然。日本書紀には「卑弥呼=神功皇后」と記載されているのか、「卑弥呼に関する記述は存在しない」と解釈するのか、どちらかですから。
邪馬台国近畿説は、日本書紀(に記載されている箸墓古墳)を都合よく利用していることが分かるでしょう。