吉野ヶ里(よしのがり)遺跡、佐賀県にある弥生時代の遺跡です。
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二重の堀や物見やぐらのある弥生後期の集落跡。むらが次第に、くにへと発展していく様子が分かる。(歴史教科書より) |
年がら年中争ってたのなら、二重の堀や物見やぐらを造ることはできません。争いは短期間で終了した。このため次の戦いに備えて、敵の攻撃を防御する二重の堀や物見やぐらを造る時間があった。
吉野ヶ里遺跡、これが卑弥呼が統一した30あまりの小国の1つです。繰り返しますが、邪馬台国が九州にあったとすれば、吉野ヶ里遺跡が「クニ」の遺跡であるはず。もっと言うと、吉野ヶ里遺跡こそが邪馬台国だったと考える研究者もいます。
とにかくここから、倭国大乱の規模が推定できます。
吉野ヶ里遺跡公園のHPに記載されてます。
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守りの様子
吉野ヶ里の人口はどれくらいだったの? |
外環壕の内部、戦国時代でいう「城内」に1200人住んでいたのですから、この人たちが「戦士」だったのでしょう。その他の人たちは老人か女性か子供たち。
倭国大乱は、1000~1500人くらいの兵士を持つクニ(小国)が30ほどあって、クニどうしが20~40年間争ったことになります。その間、二重の堀や物見やぐらを造る時間があった。争いは、(多く見て)年に2~3回程度のスパン(間隔)で断続的に続いたんです。規模は1000~1500人くらい。戦国時代の戦さとは桁が違います。
これを倭国大乱、あるいは第一次戦国時代と呼ぶべきか、はたまた九州地方の内乱と呼ぶべきか、あなたのご判断にお任せします。
個人的にはクニの規模から察して、20年くらいの争いだったと考えます(パターン4)。
まとめると、
(1) 2世紀後半、九州で30程度のクニどうしの争いが起こった。
(2) その規模は多く見て、1000~1500人くらいの戦士の戦いだった。
(3) 結果、卑弥呼という巫女が30のクニをまとめた。これが倭国。
小さなムラがやがて大きくなり、クニとなった。
歴史教科書に書かれている弥生時代の歴史。これ、九州の歴史じゃなかですか。
繰り返しますがその当時、巨大な出雲国があったことは、墳丘や銅剣/銅矛/銅鐸の分布から明らかです。それが今でも神話として語り継がれ、日本の歴史となってない。
これも、稗田阿礼&太安万侶のおかげですね。


