第10代 崇神天皇

崇神天皇(すじんてんのう)は、実在が確かな最初の天皇と言われています。日本書紀によれば、人民の戸口調査を行って調役(税金)を課したらしい。
古事記には、男性には弓端調(ゆはずのみつき:動物の肉や皮などの狩猟物)を、女性には手末調(たなすえのみつき:絹・布などの手工業品)を貢がせたと書かれてます。

税金を課すとは、たしかにリアリティがある。物語では「税金」なんて創作することはできない。それでは崇神天皇は、いつ頃の天皇だったのでしょう?
崇神天皇の墓は、奈良県天理市柳本町にある、行燈山古墳(あんどんやまこふん)という前方後円墳が比定されてます。築造時期は、4世紀前半(古墳時代前期)。

さらに古事記には、「戊寅年十二月に崩御」と書かれてます。
調べてみると、戊寅(つちのえとら)の年とは、西暦年を60で割って18余る年のこと。西暦258年、318年あたりが相当します。258年は、オオクニヌシの国譲りが行われた頃。仮に崇神天皇が、258年に崩御されたとすると、国譲りは崇神天皇に対して行われたことになりますね。が、後述する理由で、それは考えられない。
318年崩御ということになります。行燈山古墳の築造時期とも重なりますね。

崇神天皇は、3世紀後半から4世紀前半の天皇だったことになります。崇神天皇が政を行った場所が、今で言う纏向遺跡だった可能性が高い。

コラム:年
初代神武天皇は、137歳で崩御されたと書かれています。崇神天皇は168歳で崩御されたんだってさ。

どう考えてもウソ!
記紀に書かれてある年から逆算すると、初代神武天皇が即位されたのは、紀元前660年だったことになります。ここから実年齢は、「春秋」という年の数え方から、2で割ると考える研究者もいるようです。

つまり、神武天皇は68.5歳で崩御、崇神天皇は84歳で崩御されました。
これでも長すぎます。当時の平均寿命は50~60歳だったと、鳥取県の青谷上寺地(あおやかみじち)遺跡は語ってましたね。
記紀に書かれている「年」は、鵜呑みにするわけにはいかない。

しかしながら、干支(えと)は信用できる。崇神天皇は、戊寅年十二月に崩御されましたね。干支とは、60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられた、中国大陸に存在した数え方です。
壬申の乱。壬申とは、西暦年を60で割って12余る年のこと。西暦672年(=660+12)に、壬申の乱が起こってます。古事記誕生のトリガー(きっかけ)となったのは壬申の乱であると、イントロダクションに書きましたね。

このように、「中国大陸で基準とされていた干支」は信用できると考えます。

ところで本書は、オオクニヌシの国譲りの真実を探ることを目的としています。従って古事記に関して、以降は国譲りに関する部分だけを調べることにします。
余分な情報は破棄することも、大事なデータ収集。

崇神天皇の治世、疫病が起こり、多くの人たちが亡くなりました。結核や天然痘など、空気感染するウイルスが蔓延したのでしょう。個人的には異文化どうしが接触して、免疫のない近畿の人々が流行病にかかったと考えてますが。
崇神天皇は、たくさんの民が亡くなるのを憂い、神床(かんどこ)に入りました。神床とは、神託を仰ぐための寝床のこと。
崇神天皇が眠りに入ると、一人の神様が現れました。

「お主、悩んでおるな?」
「あなた様は?」
「わしは三輪山の神様、大物主(オオモノヌシ)じゃ」
「オオモノヌシ様!
それで、今度は誰に夜這いをかけたのですか?」
「どうして分かった?
さてはお主、予知能力者か!」
「予知能力が無くても分かるんです。
あなたの夜這い話は、ご先祖様からさんざん聞かされてますから」

オオモノヌシは話します。

「実を言うと活玉依毘売(イクタマヨリビメ)という、それはそれは美しい姫がおったのじゃ。
それでわしは、毎晩のように夜這いをかけた。
程なくイクタマヨリビメは、わしの子供を身ごもった。
それをイクタマヨリビメの両親が不審に思ったのじゃ」
「どういうことです?」
「イクタマヨリビメは箱入り娘。
寝室にカギをかけて、男が寄り付けぬよう、厳重に管理されておったのじゃ。
カギなど、わしには関係ないのじゃが…」
「何と、密室殺人ならぬ密室妊娠とは!
ご両親も、さぞかし心配されたことでしょうね」
「そこで、両親はイクタマヨリビメを問い詰めたのじゃ。

『お前は夫もいないのに、どうやって身ごもったのだ?
父さんは、そんなふしだらな娘に育てた覚えはない!』
『まあまあ、お父さん、とにかく娘の話を聞いてみましょうよ。
イクタマヨリビメ、正直に話してみなさい。
カギを開けて男を呼び込んだの?』
『そんなことしてないわ、お母さん』
『だったら、どうして身ごもったの?』
『それは…』」

「あのう、話はまだ続きますか?
てか、話を盛ってるでしょ」
「ここからが、いいところじゃ。
イクタマヨリビメは、こう答えたのじゃ。

『お名前は存じませんが、とても麗しい男性が毎晩やって来て、
ご一緒したら自然と懐妊しましたのよ』

イクタマヨリビメは、わしを『とても麗しい男性』と言ったのじゃ。
どうじゃ、身ごもっても仕方がないじゃろう?」

「いや、その理屈はおかしい」

「そこで両親は一計を案じ、イクタマヨリビメにこう言ったのじゃ。
『糸巻きの糸の端に針を付け、その不審者の裾に刺しなさい』
わしは不審者ではないわ!」
「どう考えても不審者です。本当にありがとうございました」
「話は、まだ終わっておらん。
翌朝、両親が見ると、糸はカギ穴を通って三輪山まで続いておった。

何たる不覚!
糸の付いた針を裾に付けられてたとは気づかなんだ」
「そうですか、もう何も言えません…」

「その時、糸巻きに残った糸は、三巻きだけだったそうじゃ。
それで、わしが祀られておる山は三輪山と呼ばれるのじゃ」
「へえ~、でもそんなトリビア、どうでもいいです。
ほんと、何しに神床に現れたんですか?」
「それでは本題に入ろう。お主、悩んでおるな?」
「それはもう伺いました」
「今の流行病は、わしの心が乱れておるせいなのじゃ」
「そこまで自由奔放な神生活でも、心が乱れるのですか?」
「うむ!
落ち着かないというか、気ぜわしいというか…
そこでじゃ、意富多多泥古(オオタタネコ)を探して、わしを祀らせるのじゃ」
「オオタタネコ?」

「イクタマヨリビメが生んだわしの子が、櫛御方命(クシミカタノミコト)。
クシミカタノミコトの子が、飯肩巣見命(イイカタスミノミコト)。
イイカタスミノミコトの子が、建甕槌命(タケミカツチノミコト)。
タケミカツチノミコトの子が、オオタタネコなのじゃ。
わしの子孫、オオタタネコに祀られれば、わしの心の乱れも鎮められる(原文:神氣不起。神の気も起きなくなる)。
流行病も鎮めることができ、民も栄えるぞ!」

神床から目覚めた崇神天皇は、
「疲れた…」
と言ったかどうかは定かでありません。が、本当にお疲れになられたと、心中お察し致します。

崇神天皇は早速、オオタタネコを四方八方、探させます。果たして見つかりました、河内(かわち)の美努(みの)村で。(大阪府八尾市あたり)
直ちにオオタタネコを神主とし、御諸山(みもろやま)に「大三輪(おおみわ、原文:意富美和) 」の大神を祀りました。
すると流行病は収束。国は安定し、人民は栄えました。
でめたし、でめたし!

ところで、お気づきでしょうか。祀られたのは「大物主」ではなく、「大三輪の大神」です。
大神と大物主、同じ神様です。「大神」と書いて「おおみわ」と読みます。三輪山をご神体として祀る神社が「大神神社(おおみわじんじゃ)」。祭神が大物主。
何故、大神/大物主と「呼称」が使い分けられているのか?
後で、この重要性に気づくことになります。

コラム:意富多多泥古(オオタタネコ)
原文では、オオモノヌシは、

「オオタタネコに、わしを祀らせるがいい。そうすれば国も安らかになる」

としか言ってません。
崇神天皇はオオタタネコに会った時、出自を確かめてます。
オオタタネコが「自分の祖先は、オオモノヌシです」と、自らの出自を語ってます。
前述のオオモノヌシと崇神天皇の会話は、もちろん私の加筆。日本書紀には、「大田田根子」と書かれてます。
はじめは三輪山を祀る巫女と思ったのですが、どうやら違うみたい。
オオタタネコが崇神天皇に自らの出自を語った時、古事記にはこう書かれてます。

「僕者大物主大神娶陶津耳命之女活玉依毘賣生子名櫛御方命之子飯肩巢見命之子建甕槌命之子僕意富多多泥古白」

(私はオオモノヌシが陶津耳命(スエツミミノミコト)の娘、イクタマヨリビメを娶って生まれた櫛御方命の子、飯肩巢見命の子、建甕槌命の子。私がオオタタネコですと言いました)

大田田根子、どうやら男性のようですね。
そう言えば遣隋使、アホの小野妹子も男性でした。

 

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