ナガスネヒコとの最終決戦

日本書紀における、ナガスネヒコとの最終決戦を見ておきましょう。

イワレヒコは、再びナガスネヒコと戦いましたが苦戦します。その時、空が暗くなり、冷たい雨が降ってきました。すると突然、鳶(とび)が飛んできて、イワレヒコの弓に止まります。鳶は金色に光り輝き、ナガスネヒコの目を眩ませます。
雷に打たれたのでしょうか?
とにかくこれで、ナガスネヒコを討ち取る時がやってきました。ナガスネヒコは言います。

「私は、天から降臨してきたニギハヤヒに仕えている。妹のトミヤビメをニギハヤヒに差し出し、ウマシマジという子供もいる。
天孫の子が、どうして2人もいるのか?
どうして、お前たちはこの地を奪おうとするのか?
どうしても納得がいかない」

イワレヒコは問います。

「お互い天孫の子と言うのか。それでは証拠を見せ合おうではないか」

ナガスネヒコは、天羽々矢(あめのははや)と歩靫(かちゆき:矢を入れて、背負う器)を見せます。

「…これは、たしかに天孫の証だ。私も持っている」

イワレヒコはナガスネヒコを討ち取ることを諦め、その場を去ります。
後日、ニギハヤヒがイワレヒコの元へ訪れます。

「天孫の子がやって来たと聞いたので、参上しました。
ナガスネヒコは、どうしても戦うことを止めようとしないので、私が殺しました。
我々一族は、あなた様にお仕え申し上げます」

こうしてニギハヤヒは、物部氏の祖先となりました。

無茶苦茶な論理!
九州からやって来たゲリラ軍団と必死に戦った、自分を奉じるナガスネヒコを殺して服従するか!
この部分、古事記を読んだ舎人親王が創作した、完全なフィクションと考えます。
と言うのも、古事記の序文にこんな一節があるから。

飛鳥の清原(きよみはら)の大宮において全国を治められた天武天皇は、皇太子として備えられてましたが、時が来ました。夢の歌の謎を解くと成すべきことが見え、夜の水に打たれて悟られました。

しかしながら、まだその時ではありません。吉野山に入り、脱皮して蝉になるように成長され、人事を得て虎のように東国(伊勢の国)を歩まれました。
天皇の輿(みこし)は山を越え川を渡り、軍隊は雷のように威を振い、三軍は電光のように進みました。
矛を手にして威勢を現わし勇猛な戦士は決起、赤い旗を掲げて武器を光らせ、敵兵は崩壊しました。

そこで牛馬を休ませ、穏やかに都に戻り、旗を巻き武器を収めて歌い舞って都に留まります。
こうして酉年の二月、清原の大宮において天皇に即位されました。

天武天皇。壬申の乱で大海人皇子として大勝利をおさめ、稗田阿礼に歴史書の誦習を命じた天皇でしたね。天武天皇は雷のように威を振るい、電光のように進軍して勝利したと、古事記の序文に書かれてます。

舎人親王はこれをベースとして、ナガスネヒコとの最終決戦を創作したと推測します。

コラム:古事記と日本書紀
この2書を「記紀」と呼びますが、私は別のものと考えてます。質が全然違う。
古事記は712年、元明天皇に「献上」されました。
日本書紀は720年、元正天皇(げんしょうてんのう)に「奏上」されました。
奏上とは天皇に申し上げること。伺いを立てることを意味します。従って、天皇の意思で却下することもできる。
ところが古事記は「献上」されているので、天皇の意思が入り込む余地がない。
古事記を献上された元明天皇は、

「はい、そうですか」

と、すぐに受け取ったでしょうか?

「天岩戸隠れ、これは何を意味してますか?
ヤマタノオロチ退治、これは何ですか?」

元明天皇は「日本の正史」を献上されたのですよ。必ず、古事記の真意を確認したはずです。稗田阿礼と太安万侶は、事細かく説明したはず。
「密奏」という言葉がありましたね。内密に天皇に奏上することでした。
古事記には神話のベールをかけて、真実を隠した部分が数多くあります。それを元明天皇に「密奏」した。
古事記の真実は、「ごく限られた皇族だけ」にしか伝えられなかった。舎人親王には伝わってない。だから古事記と日本書紀に差異が生じた。

古事記の真実を知っている元明天皇に、日本書紀はとても奏上できない。このため舎人親王は、元正天皇(げんしょうてんのう)が即位されるまで待った。元正天皇は715年に即位されます。それでもまだ奏上できない。太上天皇(だいじょうてんのう:譲位により皇位を後継者に譲った天皇の尊号)となられた元明天皇に日本書紀を見られたら、何を言われるか分かったもんじゃない。

元明天皇は、721年に崩御されました。古事記から8年後に日本書紀が奏上されたのは、このような裏事情があったためと考えてます。
それでも舎人親王には、リスクがあったと思います。だって日本書紀を奏上した元正天皇は、元明天皇の娘だったのですから。しかしながら、自分の姪っ子である元正天皇には、何とか書紀を奏上できたことでしょう。

もちろん日本書紀には、多くの役人たちが編纂に関わってます。従って、天皇記は古事記より詳細に記録されてます。日本書紀全30巻の内、神代記(神話)は第1巻と第2巻だけ。残りの28巻は、人代記(=天皇記)に費やされてます。内容も役割も、古事記とは異なる。日本書記は、天皇の歴史を詳細に記述した外交文書。
17条の憲法とか大化の改新など、飛鳥時代に何が起こったのか、我々が知ることができるのは日本書紀のおかげ。従って、

「日本書紀の方が日本の正史なのだ。これでいいのだ」

と、認識されてるわけ。
おそらく舎人親王は、役人たちに命じて「帝紀」に書かれていたことを集め、再編集しています。しかしながら「旧辞」は、舎人親王には意味不明。そりゃそうだ。豪族たちが書き残した旧辞に書かれてある事象をかき集めても、当時の役人たちには、訳が分からなかったはずです。だから日本書紀における神代記は、全体の1/15になった。

100 ÷ 15 = 6.6666…

日本書紀の約7%しか書かれていない神代記、古事記では1/3を占めています。
少なくとも神代記は、稗田阿礼が誦習(しょうしゅう)した古事記を基準とすべき。私はこのように考えてます。

コラム:舎人親王
日本書紀を編纂したとされる、舎人親王(とねりしんのう)。壬申の乱に大勝利した、天武天皇の子供です。天武天皇が「日本史」の編纂を目指したのは、はじめに書いた通り。
ここで単純な疑問です。

「天武天皇の息子である舎人親王に、何故『古事記の真実』が伝わってない?」

調べてみると、面白いことが分かりました。
天武天皇は、686年まで在位されました。その後、

(1) 持統(じとう)天皇 :697年まで在位
(2) 文武(もんむ)天皇 :707年まで在位
(3) 元明(げんめい)天皇 :715年まで在位
(4) 元正(げんしょう)天皇 :724年まで在位

と続きます。この内、男性天皇は(2)の文武天皇だけ。その他は全て、女性天皇です。はっきり言って元明天皇/元正天皇は、後の聖武天皇へ繋ぐための女性天皇。そして、

・古事記は(3)の元明天皇に献上された
・日本書記は(4)の元正天皇に奏上された

(3)と(4)、大きな違いがあります。
(3)は天智天皇、すなわち大化の改新に貢献した中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)の娘。
(4)は天武天皇、すなわち壬申の乱で大勝利を収めた大海人皇子(おおあまのおうじ)の孫娘。
天智天皇と天武天皇、2人とも舒明天皇(じょめいてんのう)の子供とされてます。
ちなみに(1)の持統天皇は、天智天皇の娘であり天武天皇の皇后でもある、複雑な系図を持たれています。

さらに興味深いのが、弘文天皇(こうぶんてんのう)。弘文天皇は、天智天皇の第一皇子です。ウィキペディアによると、

「(弘文天皇は)天智天皇の後継者として統治したが、壬申の乱において叔父・大海人皇子(後の天武天皇)に敗北し、首を吊って自害する」

中大兄皇子(天智天皇)の第一皇子を自害させたのが、大海人皇子(天武天皇)。要するに、

弘文天皇 VS 大海人皇子

という皇位継承争い。

これが壬申の乱!
従って天智天皇と天武天皇、それぞれの子孫が仲が悪いのは当然の話。元明天皇から見れば、自分のお兄さんは叔父に追い詰められて自害したことになります。
そして古事記を献上された、元明天皇のお父さんは天智天皇。日本書紀を奏上された、元正天皇のおじいさんは天武天皇という「ねじれ」が生じた。
「ねじれ」と言うのは大げさかもしれません。元明天皇の娘が元正天皇なのですから。
そこには草壁皇子(くさかべのおうじ:天武天皇の子。689年、27歳で崩御)を亡くしている「母子愛」が感じられます。

「あなたのおじいさま、天武天皇に命じられて編纂された、『古事記』という歴史書を献上されました。私の娘、元正天皇。あなたには『古事記の真実』を教えることはできません。古事記には、あなたのお父さま、草壁皇子を殺した、恐ろしい『呪い』が書かれています。
この呪いは、天智天皇の娘である私が引き受けます」
「お母さま、私は8年後、日本書記を奏上されるのです。
私のおじさま、舎人親王が取りまとめた日本書紀の方が、日本の正史になるのです。呪いなんて、書紀にはどこにも書かれてません。
お母さま、どうか本当のことを話してください」

こんな会話があったかどうかは定かで無いですが、何故、古事記と日本書紀に差異が生じたのか?
恐ろしい祝い呪いとは何なのか?
既にお気づきの方も多いと思いますが、後述します。

 

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