神武東征

4人兄弟の末っ子、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレヒコノミコト)と長男の五瀬命(イツセノミコト)は、高千穂宮(たかちほのみや)に住んでました。2人は相談します。

「どこ行きゃ、天下の政(原文:天下之政)ができるかね?」
「東の地に行くのが、よかろーがね」

ということで、日向(ひむか)から旅立つことになりました。
例によって何故天下を治めようと考えたのか、「過程」が飛んでます。さらにこの後、次男の稲氷命(イナヒノミコト)、三男の御毛沼命(ミケヌノミコト)は登場しません。
ちなみに古事記には、上巻の終わりに、

(1) 稲氷命(イナヒノミコト)は、妣国(ははくに:亡き母の国。根の堅州国のこと)として海原に入った
(2) 御毛沼命(ミケヌノミコト)は、波穂(なみのほ)を跳ねて、常世国(とこよのくに)に渡った

と書かれてます。つまり、

お前たちは、もう死んでいる!
4人兄弟という「死」の意味を持たせるために、次男/三男は創作されてます。カムヤマトイワレヒコノミコトが神武天皇になるのですから、イツセノミコトにもフラグが立ってますね。

2人は筑紫(ちくし)に行きました。そして、豊国(とよのくに)の宇沙(うさ)に到着します。そこで宇沙の宇沙都比古(ウサツヒコ)、宇沙都比売(ウサツヒメ)の2人は、足一騰宮(あしひとつあがりのみや)という宮殿を建てて、大御饗を開きます。要するに、地元の人たちが2人をもてなし、接待したということ。
さらに2人は筑紫の岡田宮(おかたのみや)に行き、1年滞在しました。1年も滞在した理由は不明。

ところで、ここまでの2人の移動ルート、変だと思いませんか?
高千穂 → 日向 → 筑紫 → 宇沙(宇佐) → 筑紫
と、移動しています。福岡県の筑紫と大分県の宇佐を往復してますね。
これは現在の地理感覚で考えるから、おかしいと感じるんです。この部分、太安万侶が書き残した地名を忠実にトレースしています。出てきた地名を順番に抜き出すと、こうなります。

高千穂宮(たかちほのみや)
日向(ひむか)
筑紫(ちくし)
豊国(とよのくに)の宇沙(うさ)
筑紫の岡田宮(おかたのみや)

「国」と明記されているのは豊国だけ。「宮(宮殿)」と書かれているのは、高千穂宮と筑紫の岡田宮の2つ。
高千穂宮と岡田宮だけが「特定の場所」ということです。
日向と筑紫は特定の場所でもなく、国でもない。国より広い「エリア」を示しています。大まかに言って、

日向=南部九州
筑紫=北部九州

南部九州に「高千穂宮」があり、北部九州に「豊国の宇沙」と「岡田宮」がある。この順番に2人は移動したんです。

2人は九州を出発、安芸(あき)の国の多祁理宮(たけりのみや)に7年滞在しました。その後、吉備(きび)の高嶋宮(たかしまのみや)に8年滞在しました。
広島県の多祁理宮、岡山県の高嶋宮と移動したんですね。

ところでここ、2人は初めて九州から移動しています。安芸国と吉備国、共に当時は出雲国でした。そんなところに宮殿があって、7年も8年も滞在できると思いますか?
歴史は勝者が作る。勝者の理屈、神話のベールを剥がすと、実際に起こったことが見えてきます。九州からやって来た集団が、安芸国と吉備国にあった集落を襲撃したんです。何のために?

もちろん食料補給のため。
多祁理宮、高嶋宮と書かれた地に住んでいた住民が、数十人/数百人もの集団に、食料を渡す(渡せる)と思いますか?
間違いなく、争いが起こってます。
ところで出雲国に対して、「その国譲れ」と言ってきた神様がいましたね。その時、3年経っても帰って来ない、8年経っても帰って来ない神様がいました。
多祁理宮に7年滞在した、高嶋宮に8年滞在した。何か似ています。

コラム:古事記の数字
8とは「とても長い/大きい」ことを表現してます。そして7。8には足りないが「ラッキー7」と呼ばれているように、これまた縁起のいい数字。3と同じ意味になります。つまり、

(1) 3年経っても帰って来ない、8年経っても帰って来ない神様がいた。
(2) 多祁理宮に7年滞在した、高嶋宮に8年滞在した。

同じ意味。私は、国譲りと同時期に神武東征があったと考えてます。

2人は高嶋宮を出発しました。すると、亀の甲羅に乗って釣りをしながら、しぶきを上げながら近づいてくる人がいました。
ここで初めて古事記の読者が、

「2人は陸路ではなく、海路で東を目指してるんだな」

と分かる構成になってます。但し天孫降臨の地、九州も海路で渡ったとは限らない。もっと言うと岡山県の高嶋宮まで、陸路で移動したのかもしれない。そして岡山県の高嶋宮に、造船所があった。そのためイワレヒコ達は、高嶋宮に8年(=長い間)滞在したのかもしれない。

それにしても、釣りをしながら波しぶきを上げて近づいてくる人って、何か変ですね。
ちょっと呼び止めて、話を聞いてみましょう。

「何だ君は?」
「何だ君はってか!
そうです、私が変な国つ神です。
ここから先は、私がご案内しましょう」

こうして変な国つ神は、槁根津彦(サオネツヒコ) と名付けられました。サオネツヒコは、倭国造(原文まま)などの祖先になります。

イワレヒコ達は浪速(なにわ)の水路を経て、白肩(しらかた)の津(≒生駒山の西。古墳時代初期までは、河内湖の入江、現在の東大阪市あたりまで船で行けた)に停泊しました。
その時、登美能那賀須泥彦(トミノナガスネヒコ)が襲ってきました。イワレヒコ達は、待ち構えて戦います。

古事記初めての戦闘シーン!
「戦さ」が描かれます。
結果、イワレヒコ達は退却、楯を降ろして立てたので、その地を楯津(たてつ:現在の東大阪市あたり)と言われるらしい。
戦さによってイツセノミコトは負傷しました。手に矢が刺さったんです。
イワレヒコは言います。

「私はアマテラスの子だった。日に向かって(東に)戦ったのがまずかった。このため、賤しい奴から痛手を受けてしまった。
これから迂回し、日を背負って(西に)攻めるぞ!」

例によって勝者の理屈、神話のベールを剥がすと答えは簡単。
要するに「大阪平野」では多勢に無勢、平地の白兵戦では分が悪かったということです。
それで今度は、西から(=奈良盆地東の山から)攻めることにした。
変な水先案内人、サオネツヒコの入れ知恵でしょう。

イワレヒコは船を進め、南方に迂回しました。そこでイツセノミコトが手の血を洗ったため、血沼(ちぬ)の海(大阪府和泉あたり)と言います。
イワレヒコ達は南下します。そして、紀国(きのくに)の男之水門(おのみなと:和歌山県のどこか)までたどり着いたとき、イツセノミコトが叫びます。

「オレは賤しい奴の攻めを受けて、死ぬのか!」

フラグ通り、イツセノミコトは亡くなります。
陵は、紀国の竈山(かまやま:和歌山市和田にある丘)にあります。

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