このように神話では、オオクニヌシの国造りが語られてますが、本当にそのような国(出雲国)が存在したのでしょうか?
物的証拠(遺跡)を見てみましょう。
古代出雲博物館のガイドブックに、こんな図が載ってます。
冒頭に紹介した、荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡で発見された銅剣/銅矛/銅鐸の分析が、ここまで進んでます。

遺跡で、山陰に大量の青銅器が発見されただけではありません。
これらと同型の青銅器が発見された地域は、この図の通り。
同じ形をした銅剣/銅矛/銅鐸が、これだけの地域で発見されてたんです。
何だこれは?
特に、銅鐸が興味深い。

ガイドブックに、このような記述があります。
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同じ鋳型を使って作られた銅鐸を「同氾銅鐸(どうはんどうたく)」と言います。兄弟のようにそっくりだ、ということから「兄弟銅鐸」と呼ぶこともあります。加茂岩倉銅鐸の場合、近畿や四国地方などから同氾銅鐸が見つかっており、当時の銅鐸の流通や地域間のつながりを考える重要なヒントとなってます。 |
少なくとも出雲地方は、これだけの地方との交流を持っていた。これは、動かせない事実です。遺跡としては、青銅器しか残ってない。
が、その他、保存の効く穀物や布などの交流も容易に想像できます。
弥生時代、「国」という概念は存在しません。出雲の国、吉備の国、伊予の国といった、奈良時代の国境も存在しない。
ましてや現在の島根県、岡山県、愛媛県といった、県境も存在しない。
そんな弥生時代、これだけの地方(集落)との交流を持ってた地が存在したんです。
これを「出雲の国」と呼ぶのか、「集落どうしの交流」と呼ぶのか、あなたのご判断にお任せします。とにかくこれは、
「ムラがまとまる過程で争いが起こり、やがてクニとしてまとまった」
という、弥生時代の歴史を完全に覆してます。
さらに驚いたのがこれ。
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弥生時代後期、日本海沿岸地域や瀬戸内海沿岸地域では、その他の地域よりも早く青銅器が無くなってしまいます。 |
これは出雲地方が、いち早く「鉄の時代」に入ったことを意味します。
人間の道具は、「石器 → 青銅器 → 鉄器」の順で発展します。つまり出雲地方は、いち早く「鉄の時代」に入ったので、青銅器は必要なくなった。
荒神谷/加茂岩倉に青銅器が埋葬されたのは、この頃だったでしょう。
「青銅器さん、今までありがとう」
という、感謝の気持ちと共に。
何故、弥生時代、出雲地方がいち早く発展したのか?
間違いなく、地政学上の問題です。古代出雲博物館の解説員さんから、次のような話を伺いました。
「当時はまだ、流れの速い対馬海流を乗り越えることのできる船はありませんでした」

ネットで拾ったこの図をご覧ください。
日本列島(九州)に一番近いのは、朝鮮半島です。
が、朝鮮半島があるため、その近海の流れは早くなります。水が流れるホースを指で押さえてみてください。その部分だけ、水の流れが速くなりますね。
同じ理屈で対馬海峡の流れは早くなり、大陸から九州に流れ着くことはできません。結果、流れ着いた地が出雲。
弥生時代、出雲は大陸からの文化(=帰化人)が流れ着く場所だったんです。
そして勾玉(まがたま)。
古事記にも頻繁に出てくるアイテム。古代を代表するアクセサリーです。
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今も昔も、人はアクセサリーで身体を飾ります。古代には勾玉などの玉類が盛んに作られ、装飾品としてだけでなくその神秘な輝きから、祭祀具や権威の象徴として扱われました。出雲は「玉」を弥生時代から盛んに生産しており、特に古墳時代後期からは全国最大規模の玉の生産地となりました。 |
弥生時代、出雲で生産されてたのは、主に「管玉(くだたま)」です。三日月(?)のように曲がった「勾玉」が、全国に普及するのは古墳時代後期。ここ、何気に大事。
弥生時代、管玉を生産できたのは出雲地方と北陸地方だけなんです。
ヒスイの勾玉って有名ですね。ヒスイが採れるのは北陸地方、糸魚川周辺だけ。出雲の勾玉は碧玉(へきぎょく)、メノウなどが原材料。
どっちも現在の宝石並みに、あるいはそれ以上に魅力的なアイテムだったことに間違いありません。
ところで三種の神器に1つに、八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)というのがありましたね。八尺瓊管玉(やさかにのくだたま)ではないことにご注目。しかも、勾玉が全国展開するのは、古墳時代後期。
ここから八尺瓊勾玉は、(弥生時代ではなく)古墳時代以降に造られたことが分かります。
とにかく弥生時代、オオクニヌシは北陸地方のヒスイに目を付けた。そこで、越の国(北陸地方)のヌナカワヒメに夜這いをかけた。
こうして弥生時代、管玉は出雲/北陸地方が独占することになりました。
弥生時代、出雲を中心とした巨大な文化圏(国)が存在したことは、動かせない事実です。

