考察:ヤマタノオロチ神話

私が初めてヤマタノオロチ神話に出会ったのは、たしか中学生の頃だったと思います。その時、

「変な神話だな」

と思いました。
高天原で、あれだけ傍若無人の限りを尽くしたスサノオが、葦原の中国に降りた途端、クシナダヒメを救う「正義のヒーロー」に変身するんです。ここに違和感を覚えました。
また、

「ヤマタノオロチとは、斐伊川のことだ」

と、先生に聞いたか、何かの本で読んだ記憶があります。が、そんなことはどうでもいい。それより斐伊川で水遊びしたり、花火大会を見てた方が楽しい。

大人になった今、改めてヤマタノオロチ神話を考えてみましょう。
ヤマタノオロチは、本当に斐伊川の象徴?
ネットで調べた現在でも、「ヤマタノオロチは斐伊川の象徴」という記述が少なくない。

八岐大蛇(ヤマタノオロチ)。八つの頭と八つの尻尾を持った蛇。たしかにここだけ「八つ」と限定するのはおかしい。
「八」とは、「たくさんの」という意味。
斐伊川を渡る神立橋(かんだちばし)から見ると、斐伊川は砂上をたくさんの支流が、蛇のようにうねって流れてます。

なるほど、ヤマタノオロチを斐伊川と比定しても、おかしくはない。
だとすると、斐伊川を退治するスサノオって何?

スサノオは垣を作り、そこに「八つの門」を開けてオロチをくぐらせましたね。そして、八塩折の酒を飲ませた。
酒を飲ませる前、門をくぐらせてオロチの動きを封じています。
門…

ひょっとして「水門」のこと!?
今でも斐伊川には、水門があります。そこから出雲市内に、水を引き込んでます。引き込んだ水が流れる川が高瀬川(たかせがわ)。水門を調節することで、高瀬川の流量を調整しています。
ということは、ヤマタノオロチ退治とは斐伊川の治水のこと?
だとすると大変なことです。

斐伊川は、大変な「暴れ川」として有名。昔は出雲市西にある、神西湖(じんざいこ:神の西の湖)を通じて、そのまま日本海に流れてました。今はその流れを180度転換、東にある宍道湖(しんじこ)に流れてます。
洪水の度に何度も流れを変える斐伊川。斐伊川の治水は、容易なことではありません。
そんな斐伊川の治水を弥生時代に行った人がいた?
それがスサノオ?

弥生時代の治水は、河川の氾濫から集落や耕地を守るための排水路や、土手の遺構などが発見されています。稲作が始まった弥生時代、田畑に水を引き込む用水路は必須。日本の治水は、弥生時代から始まりました。

しかしながら斐伊川そのものを治水するなんて、ちょっと考えられない。仮に弥生時代、本当に斐伊川の治水が行われてたとしても、遺跡は発見されないでしょう。暴れ川、斐伊川によって、2000年前の治水跡など全て流されているはずだから…

が、それこそ「予断」ではないか?
弥生時代の斐伊川の治水跡が永遠に発見されないなんて、勝手に決めつけるものではない。それに私は、弥生時代の技術を見下しているのかもしれません。

今一度、頭を白い紙にします。そこに弥生時代、斐伊川(河川)の治水が行われていたと書き込みました。日本の治水は弥生時代から始まったのだから、規模の大小は関係ない。仮に我々現代人が、

「弥生時代、河川の治水が行えた筈がない」

と考える事こそ予断であり、思い込みになります。
そうして、スサノオのオロチ退治を振り返ってみましょう。

八つの水門、つまり斐伊川の下流にたくさんの水門を設けます。水門と言っても下流にたくさんの土手を設けて支流を造り、川の流れを分散させるだけでいい。これだけでも大変な作業ですが。
すると下流の流量が増えますから、中流域の水位が下がります。そこで護岸工事。暴れ川、ヤマタノオロチを退治します。つまり「田んぼの姫」を助けた。
あるいは斐伊川本流に、たくさんの支流/水門を設けて水路を造り、集落から氾濫を迂回させたのかもしれません。

オロチの尻尾、つまり斐伊川の上流から「草薙の剣」が出てきた。これは斐伊川上流で、良質の鉄が造られていた。つまり「たたら製鉄」が行われていたことを意味します。
斐伊川上流で、製鉄が行われたのは事実です。島根県雲南市で、古代の製鉄所跡が発見されてます(羽森第3遺跡)。
但し、これは古墳時代の遺跡。弥生時代は鉄はもっぱら、海外からの輸入品に頼ってました。古代の製鉄に関して、日立金属株式会社のHPを参照してみましょう。

弥生時代に製鉄はなかった?

弥生時代の確実な製鉄遺跡が発見されていないので、弥生時代に製鉄はなかったというのが現在の定説です。

今のところ、確実と思われる製鉄遺跡は6世紀前半まで溯れますが(広島県カナクロ谷遺跡、戸の丸山遺跡、島根県今佐屋山遺跡など)、5世紀半ばに広島県庄原市の大成遺跡で大規模な鍛冶集団が成立していたこと、6世紀後半の遠所遺跡(都府丹後半島)は多数の製鉄、鍛冶炉からなるコンビナートが形成されていたことなどを見ますと、5世紀には既に製鉄が始まっていたと考えるのが妥当と思われます。

弥生時代に製鉄はあった?

一方で弥生時代に製鉄はあったとする、根強い意見もあります。それは製鉄炉の発見はないものの、次のような考古学的背景を重視するからです。

(1) 弥生時代中期以降急速に石器は姿を消し、鉄器が全国に普及する。
(2) ドイツ、イギリスなど外国では、鉄器の使用と製鉄は同時期である。
(3) 弥生時代にガラス製作技術があり、1400~1500℃の高温度が得られていた。
(4) 弥生時代後期(2~3世紀)には大型銅鐸が鋳造され、東アジアで屈指の優れた冶金技術を持っていた。

最近発掘された広島県三原市の小丸遺跡は3世紀、すなわち弥生時代後期の製鉄遺跡ではないかと、マスコミに騒がれました。そのほかにも広島県の京野遺跡(千代田町)、西本6号遺跡(東広島市)など、弥生時代から古墳時代にかけての製鉄址ではないかといわれるものも発掘されています。

弥生時代末期の鉄器の普及と、その供給源の間の不合理な時間的ギャップを説明するため、当時すべての鉄原料は朝鮮半島に依存していたという説が今までは主流でした。しかしこれらの遺跡の発見により、いよいよ、新しい古代製鉄のページが開かれるかもしれませんね。

とにかく古墳時代、斐伊川上流で砂鉄から製鉄が行われ、不純物を斐伊川に垂れ流し、「斐伊川は真っ赤に染まった」ようです。

「斐伊川の上流から箸が流れてきた」のと同様、時代錯誤があったのかもしれません。が、山陰の山々は、掘り起こせば(荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡のように)、何が出てくるか分かったもんじゃない。斐伊川上流で道路工事が始まれば、弥生時代の大規模な製鉄所跡が発見されるかもしれませんね。

ところで弥生時代後半、いち早く鉄が普及したのは、間違いなく出雲地方です。朝鮮半島から鉄が輸入された、九州北部ではありません。証拠は後で紹介します。
本当に弥生時代、斐伊川上流で大規模な製鉄が行われてたのかもしれません。それが、スサノオが持っていた銅剣と交わったので、刃が毀れた。

とにかくスサノオは、高天原では「水害」の神様でしたが、芦原の中国では「治水」の神様に変身しています。
なるほど、中学生の頃、出雲神話に感じた違和感はこれだったか。
納得できました。スサノオの正体を「水害/治水」と、対比させている。ネットで検索すると、スサノオはユダヤ人だったとか、中国の徐福だったとか、様々な解釈が見られます。
スサノオがユダヤ人でも徐福でも、私的にはどうでもいいんですが、これらの解釈では、高天原と葦原の中国における、スサノオの性格の違いが説明できない。

この後、物語はスサノオの6代目の子孫、結果的に本書の主役となる、大国主命(オオクニヌシノミコト)へと引き継がれます。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です