そして夷振(ひなぶり)の歌。これ、音仮名だと思います?
夷(ひな)と振(ふり)。間違いなく意味を持った漢字です。一般的に夷振の歌というのは、「田舎風の歌曲」と解釈されてます(倉野先生より)。古事記下巻にも、第19代允恭天皇(いんぎょうてんのう)の項に、「夷振の上歌(あげうた)」、「夷振の片下(かたおろし)」という歌が書かれてます。
ウィキペディアを基に簡単に説明すると、
| (允恭天皇の)即位23年、木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)を立太子。しかし翌年に太子は同母妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめ)との道ならぬ恋に落ちてしまった。同母兄妹の恋となると当時でもさすがに禁忌であった。即位42年、天皇は崩御。しかし暴虐を行い女色に溺れたと見なされた太子から人心は離れ、弟の穴穂皇子(=安康天皇(あんこうてんのう)、第20代天皇)へと移っていった。
穴穂皇子を恐れた太子は密かに挙兵しようとしたが失敗し、物部大前宿禰の館に逃げ込んだ。そこへ穴穂皇子が軍を率いて現れ、館を取り囲んだ。大前宿禰はあっさりと太子を裏切り、最期を悟った太子は自害した。あるいは伊予に配流されたとも言われる。 『古事記』に拠れば、太子は伊予の湯(道後温泉)に流されたという。遺された軽大娘皇女はなお想いがつのるばかりで、ついに伊予へと向かってしまった。再開した兄妹は喜びに浸りながら自害して果てたという。この兄妹の悲恋が『古事記』における衣通姫伝説であり、允恭記の大半を占める歌物語となっている。 |
允恭天皇の項は、ほとんどが和歌で占められてます。歌でぼかされてますが、どうやらここでも皇位継承争いが起こってますね。この時、木梨軽皇子が詠んだのが夷振の上歌/夷振の片下。「夷振」の意味は、田舎風の歌曲などという穏やかな意味ではない。
夷とは、異民族のこと。蝦夷(えみし)という大和朝廷に服従しなかった異民族が、東北に存在しましたね。地政学的に考えて、蝦夷がおそらく縄文時代の血を色濃く残した民族だったのでしょう。
その蝦夷を征伐した大将軍、略して「征夷大将軍」が、平安時代初期の坂上田村麻呂。征夷大将軍が、鎌倉時代から江戸時代まで続く武士の時代の「将軍」の象徴となりました。
そして幕末の「尊皇攘夷」。これ以上、説明の必要は無いでしょう。
その異民族を「振る/揺り動かす」。
夷振とは、「異民族を揺り動かす」という意味になります。
出雲国から見て邪馬台国は異民族。そりゃそうです。弥生時代の中国大陸の歴史を見てください。
| 弥生時代が始まったとされる紀元前3世紀頃、中国大陸は戦国時代で韓、趙、魏、楚、燕、斉、秦等が覇権を狙い相互に戦っていました。このなかで秦が紀元前230年に韓を滅ぼし、紀元前228年に趙、紀元前225年に魏、紀元前223年に楚、紀元前222年に燕、そして紀元前221年に斉を滅ぼし、中国史上初めての統一王朝が誕生します。 (弥生ミュージアムより) |
秦の始皇帝から駆逐された民族が日本に入ってきた。いわゆる「帰化人」です。
当時の船では対馬海峡の流れが速くて、九州にたどり着けない。たどり着いた場所は出雲。古代出雲国の誕生です。物的証拠もあります。
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弩(ど)とは、中国大陸で使用された武器です。姫原西遺跡(出雲市)出土品をもとに復元しました。中国の武器の情報が出雲にも入っていたことを示す、重要な資料です。 |
これが弥生時代後半、船の発達によって対馬海峡を往復できるようになりました。
このため、朝鮮半島が近い九州北部に弁韓の帰化人が入ってきた。
出雲国から見て、邪馬台国は異民族ですね。その異民族(=天皇の祖先)を揺り動かしたのが夷振の歌。
何というネーミングセンス!
稗田阿礼△、マジ尊敬します。
