まずは邪馬台国の場所から特定しましょう。邪馬台国は何処にあったのか?
歴史教科書に書かれているように、近畿説と九州説が有力のようです。私は今まで、邪馬台国は近畿に存在したと考えてました。
「邪馬台国という『中くらいの環』が、大きな和『大和王権』になった。倭国とは本来、『和国/輪国』と書くべき、他民族を見下した当て字。そもそも『やまたい』と『やまと』、発音が似ている。だから邪馬台国は、近畿(奈良)にあった」
このように、漠然と考えてました。
が、今回調べてみて、考えを改めました。邪馬台国近畿説の根拠は、箸墓古墳だそうです。箸墓古墳が卑弥呼の墓だそうな。

卑弥呼の墓が前方後円墳であるわけがない。前が方墳、後ろが円墳。方墳と円墳を合体させたもの、略して前方後円墳。つまり方墳と円墳が存在しなければ、前方後円墳は造れない。
魏志倭人伝によると、卑弥呼が死んだのは弥生時代終末期、西暦248年とされています。仮に卑弥呼の古墳があったとすると、方墳か円墳でなければならない。前方後円墳の箸墓古墳が卑弥呼の墓であるはずがない。
それでは邪馬台国があったのは九州?
そう、九州です。
九州の人に話を聞いたのだから、邪馬台国は九州。
話しを聞いた九州の人が、本州や四国を知ってたかどうか定かでない。だから邪馬台国は九州。
話しを聞いた九州の人が、本当の話をしたのか、ウソをついたのかも分からない。だから邪馬台国は九州。
一番肝心のソースが不明確なのだから、邪馬台国は九州。それ以上もそれ以下も、全て憶測になってしまいます。
分からないことは分らない。
どんな調査/研究でも、一定の割り切りは必要。地球温暖化のように、予断に基づいて深掘りすると、必ず真実から遠ざかります。だから本書では、古事記に出てくる全ての神様を、あえて紹介してません。予断に基づいて神様の名前を深掘りしても、真実から遠ざかるだけ。
繰り返しますが古事記の序文に書いてある通り、稗田阿礼も太安万侶も全てを理解してないのですから。
| コラム:銅鏡 それでは何故、近畿地方の文化が入った島根県雲南市の神原神社古墳から、魏の年号「景初三年(239年)」と刻まれた銅鏡(三角縁神獣鏡)が出土したのでしょう? これこそ邪馬台国が近畿にあった証拠ではないのか? 違います。神原神社古墳は4世紀中ごろの古墳でしたね。卑弥呼が生きていた時代と、神原神社古墳に埋葬された人が生きていた時代とは、1世紀の開きがあります。この間に、九州から近畿に移動した勢力があったとすれば、説明が付きます。 そう言えば、九州から近畿に移動した集団がいたなんて話が古事記に書かれてたなあ… そもそも日本の銅鏡は弥生時代後半、中国大陸(前漢/後漢)から北部九州に入ってきたアイテム。近畿地方から出土している銅鏡は、古墳時代のものです。神原神社古墳から出土した銅鏡も、もちろん古墳時代のもの。ちなみにアマテラスの象徴である「八咫の鏡」とは、大きな銅鏡のことです。 ところで神原神社古墳から出土した銅鏡は、卑弥呼が魏から下賜(かし)されたものかどうか、意見が分かれてましたね。 コラム:邪馬台国(近畿説と九州説) 「邪馬台国は九州に存在した。同時期に存在した纏向遺跡は別の王朝」 と考える研究者も少なくないようです。要するに大和王権誕生の地、奈良盆地と邪馬台国とは無関係と言うこと。纏向遺跡からは銅鏡は出土していない。もっと言うと、九州で造られた土器も出土しないんです。 だがしかし! (1) 邪馬台国は、「魏」という中国大陸に存在した国の「年」に基づいて書かれた それぞれ、基準が異なります。前述の通りC14年代測定法は、100年以上古く推定されている可能性が高いし、土器による年代測定は研究者によってまちまち。つまり、 (1) 魏志倭人伝に書かれている邪馬台国は、2世紀後半から3世紀前半に存在した、九州の国 と考えます。 そして邪馬台国近畿説信者だった私は、日本書記が気になります。 ここで言うアマテラスとは八咫の鏡のことです。崇神天皇が銅鏡を遠ざけたのなら、纏向遺跡から銅鏡が出土しないのは不思議ではない。 (1) 前に書いた通り、第10代崇神天皇は、今でいう纏向遺跡で政を行った可能性が高い。 気になることがあります。 「30ほどの小国を従え、女王の卑弥呼がこれを治めていた。卑弥呼は神に仕え、まじないによって政治を行う不思議な力を持っていた」 しっかり「女王」と書かれてます。出雲国も卑弥呼の配下、30ほどの小国の一つだったことになりますね。 このお姫様が、女王卑弥呼? はっきし言って、卑弥呼の墓は箸墓古墳だったという説は、ここで破綻してます。 「日本書記と邪馬台国(魏志倭人伝)とは関係ない」 と、解釈するしかないんですが、日本書紀には気になる記述がありました。これに関しては後述します。 |