古事記の中巻ラストに、番外編として天之日矛(アメノヒボコ)神話が語られてます。
中巻ラストは、第15代 応神天皇(おうじんてんのう)が語られてます。その応神天皇の項に、アメノヒボコが記載されてます。
以降はアメノヒボコに関して、ダイジェストで紹介します。
その昔、新羅の皇子アメノヒボコがやってきました。
聞くところによると、ある沼の辺で賤しい女が寝てました。そこに日の光が虹のように輝いて、ホトを射しました。
それを賤しい男が不思議に思って見ていると、女は寝てた時に孕み、赤玉(原文まま)を生みました。それを見ていた賤しい男は、賤しい女に言いました。
「その玉、ちょうだい」
「いいですよ」
と言うわけで、男はその玉を腰に隠し持ってました。
男は農夫でした。ある時、田んぼで働くみんなの飲食物を牛に背負わせて、山谷を運んでました。
その時偶然、新羅の皇子アメノヒボコと出逢いました。アメノヒボコは言います。
「お前はどうして、飲食物を牛に背負わせて山谷に入るのだ?
さては、この牛を殺して食べようとしているのであろう」
と、いちゃもんをつけて、牢屋に入れようとしました。
「ダンナ、それは誤解ってもんでさあ。
あっしはただ、田んぼで働いてる人たちの食料を運んでるだけなんで…」
「信じられんな」
「ダンナ、これで勘弁してくだせえ」
農夫は、腰に隠し持ってた赤玉を差し出します。
「うむ、今日はこのくらいで勘弁してやろう」
アメノヒボコは悪代官のように赤玉を農夫から奪い、床に置きました。すると赤玉は、麗しい乙女に変身したので妻としました。
その乙女は、いつも様々な珍味を料理して夫に食べさせました。そのうちアメノヒボコは、妻が自分に尽くすのは当たり前だと思うようになりました。心が奢ってしまったわけですね。次第にアメノヒボコは、妻を罵るようになりました。
「なんだこの料理は、マズイ!」
「昨日は何処に行ってた?」
「オレが、どれだけ苦労してるのが分ってるのか!」
当然、以下のようになりました。
「実家に帰らせて頂きます」
乙女の実家は、大阪の難波でした。難波の阿加流比賣(アカルヒメ)だったのです。
アメノヒボコは妻を追ってきますが、「渡りの神」に阻まれました。
仕方なく戻って、但馬国(たじまのくに、原文:多遲摩國)に着き、そこに留まりました。
そこで前津見(マエツミ)という現地妻を娶り、以降はその子孫の系譜が語られます。
また、アメノヒボコが持って来たものは(原文:天之日矛持渡來物者)、 玉津宝(たまつたから)といい、
2つの珠
振浪比礼(なみふるひれ)
切浪比礼(なみきるひれ)
振風比礼(かぜふるひれ)
切風比礼(かぜきるひれ)
奧津鏡(おきつかがみ)
辺津鏡(へつかがみ)
の8種と書かれてます。
比礼(ひれ)とは古代に女子が首にかけ,左右に垂らして用いた一条の布のこと。
(コトバンクより)
鏡は説明不要ですね。銅鏡のことです。
注目すべきは「2つの珠」。そもそも玉津宝(=玉の宝)と書かれてるのですから、最重要アイテムです。
アメノヒボコは新羅の皇子でしたね。朝鮮半島の国、新羅から「珠」を持ってきました。
以前「玉」に唾を付け、無理やり相手にプレゼントした神様がいましたね。
そう、山幸彦です。
このように「玉/珠のやり取り」は、朝鮮半島の国との交流を現わしてるんです。ここから山幸彦が行った海底宮殿は、弁韓だと考えました。
余談ですが出雲神話で、天津国玉(アマツクニタマ)という神様が登場しましたね。返し矢で殺された、天若日子(アメノワカヒコ)の親でした。
「天つ国の玉」。アメノワカヒコの祖先も、弁韓からの帰化人だったのかもしれません。
ところで稗田阿礼は、一体何のためにこんな神話を創作したんだ?
天之日矛(アメノヒボコ)。アメノ〇〇とか、アマノ〇〇と言った神様は、高天原の神様でしたね。
稗田阿礼は、アメノヒボコを高天原の神様と同等に扱って創作してます。
ちなみに「高天原 = 朝鮮半島」と言うわけではありません。もしそうなら、山幸彦は海底宮殿ではなく、高天原に行ったはず。わざわざ海底宮殿を創作する必要はありません。
そもそも「高天原 = 朝鮮半島」だったら、稗田阿礼は「アメノヒボコは、高天原から降臨してきた」と書いたはずです。「賤しい女が孕んだ赤玉」を、高天原の神様が娶るわけがない。
それでは何故、稗田阿礼はアメノヒボコを高天原の神様と同等に扱ったのか?
さらにアメノヒボコが書かれてるのは、前述の通り第15代 応神天皇の項です。アメノヒボコ神話は、
「その昔、新羅の皇子アメノヒボコがやってきました」
という一文で始まりました。原文は、
「又昔有新羅國主之子名謂天之日矛是人參渡來也」
ここにも何か秘密があります。
何故、応神天皇の項にアメノヒボコの昔話が語られているのか?
考えるには材料不足です。そこで日本書紀を見てみましょう。
日本書記には、
「第11代 垂仁天皇の時代に、アメノヒボコがやって来た」
と書かれてます。ウィキペディアを基に簡単に見てみると、
|
アメノヒボコは、はじめ播磨国に停泊していた。これに対し垂仁天皇は、大友主(三輪氏の祖)と長尾市(倭氏の祖)を派遣して、アメノヒボコを問いただした。その時アメノヒボコは、 「自分は新羅国王の子である。日本に聖皇がいると聞いたので、新羅を弟の知古(ちこ)に任せて、自分は日本への帰属を願ってやって来た」 と言い、8つの宝を献上した。 垂仁天皇は播磨国にアメノヒボコの居住を許したが、ヒボコは、 「諸国を廻って、適地を探したい」 と願ったので、これも許可した。アメノヒボコは諸国を巡り、但馬国に居住した。 |
続いて、播磨国風土記も見ておきましょう。
播磨国風土記、播磨の地方公務員が作成した郷土史です。成立時期は713~715年。日本書紀が完成する前ですね。それによると、
|
アメノヒボコは宇頭川(揖保川)にやって来た。そこで葦原志許乎(=オオクニヌシ)に、 「どこか、私の住むところは無いか?」 と尋ねたところ、オオクニヌシは、 「お前が住むところは、あそこだよ」 と、海を指した。するとヒボコは、剣で海水をかき混ぜて勢いを見せた。ヒボコの勢いに危機を感じたオオクニヌシは、先に領地を確保しようと、慌てて川を遡って行った。その時、丘の上で食事をしたが米粒を落としたため、粒丘(いいぼおか)と呼ばれるようになった。 また、オオクニヌシとアメノヒボコは、山からそれぞれ3本の葛(くず)を投げた。オオクニヌシの1本は宍粟郡(しそうぐん)に落ち、残り2本は但馬の気多郡(けたぐん)と養父郡(やぶぐん)に落ちた。ヒボコの葛は3本とも但馬に落ちたため、但馬の出石(いずし)に住むことになった。 |
もう一つ、播磨国風土記にはオオクニヌシとスクナビコナの逸話もあります。
スクナビコナ。オオクニヌシと国造りした小人の神様でしたね。播磨国風土記には「小比古尼命」と書かれてます。
|
オオクニヌシとスクナビコナは言い争いになって、 「粘土を担いで行くのと糞を我慢して行くのと、どちらが先に行けるか」 という話になった。オオクニヌシは糞を我慢して行き、スクナビコナは粘土を担いで行った。数日後、オオクニヌシは、 「もう我慢できない」 と、糞をした。スクナビコナも、 「疲れた」 と粘土(ハニ)を岡に放り出した。このため聖岡(はにおか)と呼ばれるようになった。また、オオクニヌシが糞をした時に、笹が弾き上げて服についてしまった。このため波自賀(はじか)と呼ばれるようになったと言う。 |
このように播磨国風土記には、地名にまつわる話が数多く出てきます。そこで地名を整理してみましょう。
まず但馬国と播磨国、それぞれ現在の兵庫県北部と南部を現わしてます。そして、
| 但馬国にある地名 | :気多郡、養父郡、出石 |
| 播磨国にある地名 | :宇頭川(揖保川)、粒丘(損保郡)、宍粟郡、聖岡(神埼郡)、波自賀(神埼郡) |
お分かりでしょうか?
但馬国の出石だけ、アメノヒボコが占めています。他の地名、特に播磨国にある地名は、全てオオクニヌシが占めました。
材料は揃いました。それでは考察に入りましょう。