ここからは古事記の中巻、人代記に入ります。その前に前提条件というか、私の考えを説明しておきます。
古事記中巻は、「神武天皇の東征」で始まります。初代神武天皇は日向(ひむか)を出発、奈良盆地(橿原の地)に京を作ります。これが大和王権(=日本)の誕生。神武天皇が橿原の地を制した日が「建国記念の日」となります。
人代記と言っても、前半は神様が出てきたりして、神代記と人代記がごっちゃになった構成になってます。このため、「神武天皇の東征」は神話(物語)なのか、実際に起こったことなのか、意見が分かれてます。
私は、神武天皇の東征は実際に起こったこととして話を進めます。理由は2つ。
その1:
神武東征が物語だったら、稗田阿礼が創作した意図が不明。
天孫降臨の地は、はじめから奈良盆地だったという、「結果」を創作するはずです。わざわざ「筑紫の高千穂の日向」などと、九州の地名を入れる必要は無い。
さらに、そこから神武天皇が東征したという「過程」を創作できるわけがない。
その2:
人代記に入ると人間どうしの争い、「戦争」が描かれます。戦うためには武器、銅剣や鉄剣が必要。
荒神谷遺跡/加茂岩倉遺跡から発掘された、銅剣/銅矛/銅鐸の分布図を思い出してください。近畿圏が銅鐸文化、九州圏が銅剣/銅矛文化でしたね。
さらに、海幸彦/山幸彦の物語。山幸彦は弁韓に行ったと考察しました。弥生時代後半、航海技術が発達して、対馬海流を乗り越えて大陸と往復できるまで、船が発達したんです。そうなると大陸との玄関は、出雲から九州北部に移ります。
弥生時代後半、船の発達により九州北部は急速に発展した。このため鉄、すなわち鉄剣を持つことができるようになった。
言うまでもなく、銅鐸で戦うことはできない。
弥生時代、近畿地方に住んでた人は、戦争とは程遠かったはずです。
以上の2点から、「神武天皇の東征」は実際に起こったことと考えます。
コラム:弥生時代の船
弥生時代後半、船が発達したと書きましたが、何がどのように発達したのでしょうか?
弥生ミュージアムのHPに、そのヒントがあります。
| 弥生時代の船の姿は、鳥取県の角吉稲田遺跡の土器や、福井県春江町出土の銅鐸などに描かれています。そこには多数の漕手と櫂が表現されており、かなりの大型船が利用されていたことが推定できます。これらの絵や古墳時代の船形埴輪から、弥生時代には丸太をくり抜いて造った丸木舟に竪板(たていた)や、舷側板(げんそくばん)等の部品を組み合わせた準構造船という大型船があったと考えられています。準構造船の全体がわかる船の出土例はまだありませんが、滋賀県守山市赤野井浜遺跡などから、舳先(へさき)や舷側板の一部が出土しています。魏志倭人伝には、
「倭人が中国に航海する時、常に一人(の人に)は頭(髪)を梳(くしけず)らず、しらみを(とり)去らず、衣服は垢(あか)によごれ(たままにし)、肉をたべず、婦人を近づけず、喪に服している人のようにさせる。これを名づけて持衰(じさい)という。 という記述があります。こうした呪いや祈りが必要なほど、当時の準構造船による遠方航海は危険なものであったのでしょう。 |
ヤマトタケルの妃、オトタチバナヒメは持衰だったんですね。
ところで下線部にご注目。船底が「丸太をくり抜いて造った丸木舟」になってますね。その側に「竪板や、舷側板等の部品を組み合わせた準構造船」が、弥生時代の船。
ちなみに、屋台骨(キール)と板材によって建造された船が「構造船」。現在の木造船です。
繰り返しますが、弥生時代は「丸木舟」。それだけ大きな木があったことになります。これらの大木は造船のため、ほとんど伐採されたはず。
丸木舟ですから船底はU字型。構造船はV字型。構造船が「波を切り裂く」のに対し、準構造船は「波の上に乗る」。このため、船首がそり上がった形になってます。ちなみに「そりこ船」という丸木舟が、古代出雲歴史博物館に展示されています。
丸木舟の右舷/左舷に、竪板や舷側板等の部品を組み合わせたのが準構造船。舷側板からオールを出して漕ぐ。大型の準構造船は右オールと左オール、別の人が漕ぎます。
私は高校生の頃、広島県江田島市で、このような船を漕いだことがあります。右舷を漕ぐ8人、左舷を漕ぐ8人の力が均等でなければ、まっすぐ進みません。どちらかの漕ぐ力が強かったら、漕ぐ力の弱い方向に曲がってしまいます。
右舷/左舷の力を調整するため、船頭が進行方向から後ろ向きに座り、漕ぐ人に指令を出します。そして船尾に監視役が立ち、船の進む方向を見定めます。
かなり大変!
途中休憩すると、船は波に流されてしまいます。
これでは流れの速い対馬海峡を渡れないことを、私は身を持って体験してました。
それでは弥生時代後期、どうやって対馬海峡を往復したのか?
間違いなく「帆」です。風の力を利用しなければ、対馬海峡は渡れません。
弥生時代の船に帆があったことは、確認されてません(遺跡が発見されてない)。が、対馬海峡を往復したという結果が、帆の存在を証明しています。
弥生時代後半、船に帆が取り付けられた。それまで大陸から出雲に流れ着くだけの一方通行だった航路が、両方向通行可能になった。そして、大陸に近い九州北部に大陸の文化が入るようになった。
船の発達は、神武東征も可能にしました。神武天皇は航路で近畿入りします。
それでは神武東征、古事記第2巻(中巻)を見ていきましょう。