ヤマトタケルは4世紀前半、第12代景行(けいこう)天皇の時代に居たとされる皇子です(歴史教科書より)。
この頃、南九州に反乱がありました。景行天皇は、次男の小碓命(オウスノミコト)を派遣しました。この南九州の地が熊襲。
オウスノミコトは、女装して熊曽建(クマソタケル)兄弟に近づき、2人とも刺殺します。
弟クマソタケルは死ぬ間際、オウスノミコトに言い残します。
「見事な攻撃だ、オウスノミコト…
これからは、あなたがタケルの名を継ぎ、倭建御子(ヤマトタケルノミコ)と名乗られるがよい…」
だが断る!
私なら断ります。倒した相手の名を継ぐなんて、それこそ穢れてしまうってもんです。
しかしながらオウスノミコトは言われた通り、ヤマトタケルと改名します。
この後、出雲国で出雲建(いずもたける)を、だまし討ちで討ち取る場面がありますが省略。古事記は、「建(たける)」という言葉を強調したいようです。そう言えば「建」が付いた神様が、何人かいたなあ。建御雷之男(タテミカズチノオ)とか、建御名方(タテミナカタ)とか、建速須佐之男(タケハヤスサノオ)とか…
建には「勇ましい」という意味があるのでしょう。
とにかくヤマトタケルは大和に帰ると景行天皇に、今度は東方征伐を命じられます。
「間髪入れずに東征だなんて、オヤジはオレを何だと思ってるんだ?」
ヤマトタケルは、伊勢神宮に参拝します。
そこで伊勢神宮を祀る、倭比売命(ヤマトヒメノミコト)から草那芸剣(くさなぎのつるぎ)を受け取ります。
草薙の剣、ヤマタノオロチの尻尾から出てきた、三種の神器の1つですね。
この剣、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)と言われますが、これは日本書紀に基づいてます。古事記には一貫して「草那芸剣」と書かれてます。
ヤマトタケルが相模国に入った時、相模国の国造に騙されて野原の中に入ります。そして、その野原に火を付けられます。
ヤマトタケル大ピンチ!
そこでヤマトタケルは草薙の剣で草を薙ぎ払い、逆に火を付けて相模の国造を滅ぼします。
このことによって、天叢雲剣が草薙の剣と呼ばれるようになったと書かれてるのは日本書紀。
ところで以前、似たようなピンチに追い込まれた神様がいましたね。
この部分、アレの焼き回し。
ヤマトタケルは走水海(はしりみずのうみ:浦賀水道)を渡った時、波が荒れて進むことができなくなりました。 その時、ヤマトタケルの妃、弟橘比売命(オトタチバナヒメノミコト)は言いました。
「私が身代わりとなって海に入りましょう。あなたは、どうか大切な任務を果たしてください」
こう言ってオトタチバナヒメは、海に飛び込みました。すると海は静まり、穏やかになりました。
人間の命を犠牲にすると、スサノオが泣いて荒れる海が治まる。
当時は、このように考えられてたようです。
この時、オトタチバナヒメは歌を詠みます。
「さねさし 相武の小野に 燃ゆるこの 火中に立ちて 問ひし君はも」
(意訳:相模国の、あの燃えさかる火の中で、私の身を案じて下さった、あなた…)
一見お涙ちょうだいの歌ですが、果たしてどうでしょう?
戦場に自分の妃を連れて行く戦士がいるか、普通?
この後ヤマトタケルは東北の蝦夷を成敗し、大和に帰る途中、群馬県の碓氷峠で、
「ああ、吾妻はや(我妻よ)」
と、嘆きました。
こうして関東、「あずま(東)の国」という地名が生まれたそうです。
ホンマかいな?
ははあ、稗田阿礼はここで「相模国」や「東の国」という、「地名」を謳いたかったんだな。そこから逆算して、オトタチバナヒメを同行させ入水させたのか。
結論から過程を創作する、稗田阿礼の手の内は分かってます。
大和に帰る時、ヤマトタケルは剣を持たないで伊吹山(滋賀県と岐阜県の境の山)に登った時、足が縺れ、次第に歩けなくなりました。破傷風にでもかかったのでしょうか?
そして、何とか伊勢の能褒野(のぼの:三重県、鈴鹿サーキットの北西部)までたどり着きました。
「疲れた。私の足は三重に曲がり、とても疲れた…」
薄れ行く意識の中、ヤマトタケルは「辞世の句」を詠います。
「倭は国のまほろば たたなづく 青垣山籠れる 倭し麗し」
(大和は素晴らしい国 幾重にも重なって 青々とした垣をなす山々 その山々に 囲み抱かれる 大和は なんと美しい国だろう)
泣けるぜ…
人々はその場所に陵(墓)をつくって、ヤマトタケルを丁寧に葬りました。するとタケルは、白鳥となって墓から飛び出し、天高く飛んでいきました…